日本屈指のダム
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このような経緯を経て1953年田子倉ダムは奥只見ダム・黒又川第一ダム(黒又川)と共に建設事業が正式にスタートし、同年11月よりダム建設に着手した。ダム地点は険しい山岳地帯で有数の積雪地帯でもあったことから、第一に実施されたのは建設資材運搬のための鉄道敷設であった。会津川口駅よりダム建設地点まで35.0 km区間の専用鉄道を建設し、1956年(昭和31年)に開通させた。この後本格的なダムコンクリート打設が開始され、同時に発電所工事も進められた。この間1956年(昭和31年)7月には只見特定地域総合開発計画を通じ、この事業に関わった当時の総理大臣・吉田茂が工事現場を訪問し、見学している。1959年(昭和34年)3月にはダム本体が完成して湛水も開始され、翌1960年(昭和35年)10月、全てのダム・発電所建設事業が完成した。総工費は約348億円、建設に携わった人員は延べ約300万人であり、日本のダムの歴史において特筆される事業の一つであった。だが、困難な建設事業の中でに43名の殉職者を出す結果となり、毎年8月のお盆時に慰霊祭が執り行われている。 田子倉ダムは規模としては奥只見ダムと並んで全国屈指の規模を持つ。重力式コンクリートダムとしては堤高が全国第六位、堤体積は宮ヶ瀬ダム(中津川)に次いで全国第二位である。因みにダム建設に使用されたセメントの量は、セメント袋に換算して積み重ねた場合、富士山の約311倍の高さとなる膨大な量である。こうしたことからダムは奥只見ダム、御母衣ダム(庄川)と並ぶ電源開発の三大ダムとして、『OTM三大ダム』と呼称される。「O」は奥只見、「T」は田子倉、「M」は御母衣の頭文字である。
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