大同電力への参加
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日本水力の設立と時を同じくして、大規模水力開発を行い電力不足に悩む関西方面へと送電する、という事業目的を持つ新会社が2社設立されていた。一つは、大阪を地盤とする宇治川電気の関係者が中心となって1919年12月に設立した日本電力で、東海・北陸地方で水力開発を行い10万キロワットを関西地方へと送電する計画であった。もう一つは同年11月に設立された大阪送電会社で、木曽川開発を手がけていた福澤桃介系の木曽電気興業と関西の電鉄会社京阪電気鉄道の合弁事業であった。 日本水力は競合他社に先んじて工事の実施準備を進め、1920年1月技師らをアメリカ合衆国へと機械資材などの購入のために派遣、同年2月には大阪送電線の測量を終えて工事実施認可を申請し、次いで機械資材の発注も済ませた。送電線以外では変電所の工事や九頭竜川水系真名川筋の五条方発電所(福井県大野郡上庄村、現・大野市)の建設にも着手した。ところが1920年春に生じた戦後恐慌の煽りを受けて、5月に工事の中断を余儀なくされてしまう。恐慌により株式払込金の徴収や資金の借り入れが不可能となり、金融に行き詰ったためであった。 この恐慌を機に、同じく関西方面への送電計画を掲げる大阪送電会社と、その親会社木曽電気興業の3社間で合併話が浮上する。日本水力は金融難に陥っている一方で大阪電灯・京都電灯という販路を確保していたが、大阪送電会社および木曽電気興業は大量の電源を擁するものの販路が十分でない、という事情が背景にあった。京阪電気鉄道社長(大阪送電取締役兼)の岡崎邦輔が仲介役となって日本水力社長の山本条太郎と大阪送電・木曽電気興業社長の福澤桃介の間に合併議論が持たれ、1920年9月20日に合併案が纏まって覚書きの交換に至る。翌10月8日には、大阪送電を存続会社として同社が木曽電気興業および日本水力を吸収する、という合併契約が締結された。 日本水力ではこの合併契約を1920年11月10日の株主総会にて承認した。日本水力に関する合併条件は、存続会社である大阪送電が5000万円(うち1400万円払込、日本水力の払込資本金額と同額)を増資し、それに伴う新株を解散する日本水力に対し計100万株(12円50銭払込株式88万株・25円払込株式12万株)交付する、というものであった。また合併前に日本水力の資金拠出により同社株式4万4000株を木曽電気興業株主に取得させる、という事項も付属していた。 3社合併は翌1921年(大正10年)1月20日付で逓信省の認可が下り、同年2月25日には大阪送電にて合併報告総会が開催されて合併手続きが完了、大阪送電が木曽電気興業・日本水力の2社を吸収合併する形で大同電力株式会社が発足した。なお木曽電気興業では解散日を合併報告総会と同じ25日付としているが、日本水力は解散日を2月9日付としており、19日には解散登記も終えている。
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