大同電力による再吸収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:46 UTC 版)
設立以来、大阪電力の事業は順調な発展を続け、1930年前後の不況期には増加率が低迷したものの電灯・電力ともに供給は増加を続けた。具体的には、設立初年度の1925年下期末時点で電灯15万3586灯・電力供給2万285馬力・電熱供給479キロワットであった供給成績は、1934年(昭和9年)下期末には電灯26万6312灯・電力供給5万371馬力・電熱供給1,863キロワットまで伸長している。従って経営成績も良好で、1926年上期は8.5%、同年下期より9%の配当を行い、1930年以降は電力業界一般の不振に際して内容の充実を図って減配としたものの8%、1932年以降は7%の配当を続けた。電源はすべて大同電力からの受電により、供給の伸びとともに受電電力は増加を続け1925年度には1万3,000キロワットであったものが1934年には2万6,500キロワットとなった。 1934年、大同電力は、業界内の競争激化により卸売り専業では競争力が低下してしまうとの考えから、大阪電力の一般供給事業を直営に戻す方針を固めた。同年5月1日付で両社は合併仮契約を締結、大同電力は大阪電力を吸収合併して資本金を1000万円増資することとなった。合併比率は、大阪電力の額面50円・35円払込済み株式1株に対し大同電力の額面50円全額払込済み株式1株を交付するので、7対10ということになるが、大同側は1933年より無配であるのに対し大阪電力は7%の配当を行いかつ多額の内部留保金を有する関係から大阪電力側を有利に設定された。大同電力では同年6月30日、大阪電力では7月2日、それぞれ株主総会にて合併を承認。逓信省からの合併認可が遅れたため合併契約上の合併期日11月1日よりも遅れて11月30日付で合併実行となった。翌12月26日大同電力にて大阪電力合併の報告総会が開かれ、同日をもって大阪電力は解散した。 なお大阪電力の設立以来の役員について見ると、初代社長の増田次郎は1927年(昭和2年)1月に辞任し、2代目社長に村瀬末一が就任。村瀬が1931年(昭和6年)12月に大同電力副社長辞任とともに辞任すると木村森蔵が代表取締役専務となり(在任のまま1933年12月死去)、1933年(昭和8年)6月の役員総改選の結果増田次郎が社長に復帰した。以後増田は大同電力・大阪電力の社長を兼任していた。
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