大同電力の発足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 15:07 UTC 版)
大阪送電会社の設立と時を同じくして、大規模水力開発と電力不足に悩む関西方面への送電を事業目的とする新会社が2社設立されていた。一つは宇治川電気の関係者が中心となって1919年12月に設立した日本電力で、東海・北陸地方で水力開発を行い10万kWを関西地方へと送電する計画であった。もう一つは同年10月に設立された日本水力で、山本条太郎らと大阪電灯・京都電灯の関係者が中心となり起業し、関係者から北陸・東海・関西地方の水利権を集めて10万kWを発電、それを大阪電灯・京都電灯へと供給する計画であった。 1919年後半に相次いで関西への送電を目指す新会社が設立されたものの、翌1920年(大正9年)春に戦後恐慌が発生してしまう。大同電力自身の説明によれば、この財界変動により生じた金融、産業界、電力需要その他の環境が、大阪送電会社と日本水力がそれぞれ別個に事業を行うには困難な状勢となったことから、自然と合同の機運が生じたという。実際、日本水力側から見ると、恐慌の影響で資本金の払い込みや資金の借り入れが不可能となり資金が枯渇していた折であり、その打開策としての合併であった。また日本水力は販路に大阪電灯・京都電灯を確保していたが、大阪送電・木曽電気興業は十分な販路を持たない、という事情もあった。合併交渉は岡崎邦輔を仲介者として行われ、大阪送電・木曽電気興業社長の福澤桃介、日本水力社長の山本条太郎との間に3社合併の交渉がまとまって、1920年9月に合併に関する覚書きの交換、同年10月8日には合併契約の締結へと進んだ。 合併契約の概要は以下の通り。資産内容が優れる福澤系2社による日本水力の吸収といえる内容である。 合併における存続会社を大阪送電会社とし、木曽電気興業・日本水力は合併により解散する。 大阪送電会社は1921年1月1日の資産負債の状態をもって木曽電気興業・日本水力より権利義務一切を継承する。 大阪送電会社は資本金を2000万円から1億円へと増資する。増資に伴う株式160万株のうち、30円払込株式37万2000株・12円50銭払込株式22万8000株(資本金3000万円・払込1401万円に相当)を木曽電気興業株主に交付し、12円50銭払込株式88万株・25円払込株式12万株(資本金5000万円・払込1400万円に相当)を日本水力株主に交付する。合併前の資本金は木曽電気興業1860万円、日本水力5000万円。 なお木曽電気興業が持つ大阪送電会社の株式は、合併にあたりすべて親会社の名古屋電灯が引き取った。 大阪送電会社は株式に加えて348万3600円の合併交付金を木曽電気興業株主に支払う(日本水力株主には交付せず)。 合併までに、日本水力は90万円を支出し自社株4万4000株を木曽電気興業株主に無償取得させる。 大阪送電会社は11月2日の臨時総会にて木曽電気興業・日本水力の合併を議決。木曽電気興業では8日、日本水力では10日にそれぞれ臨時総会にて大阪送電会社への合併を決議し、各社での合併契約承認手続きが完了する。翌1921年(大正10年)1月20日には逓信省より合併認可も下り、その後各種手続き経て2月25日に大阪送電会社にて合併報告総会が開催されて合併が完了、資本金1億円の大同電力株式会社が発足した。新社名は3社の「大同団結」により発足したことが由来で、福澤の考案による。社長には福澤桃介が留任、副社長には日本水力から宮崎敬介が入り、常務取締役には増田次郎・太田光熈と木曽電気興業から三根正亮、日本水力から近藤茂・関口寿の計5名が選ばれた。また本社を引き続き東京市麹町区に置き、大阪市・名古屋市に支店を構えた。 大同電力は発足当初、電気事業以外に2つの副業をもった。木曽電気興業より引き継いだ製鉄事業と、日本水力より引き継いだ硫酸アンモニウム(硫安)製造事業である。これらの事業は景気に左右されやすいことから本業の電気事業の収益を確保すべく別会社とする方針が採られ、1921年11月、製鉄事業は大同製鋼株式会社、硫安事業は大同肥料株式会社(後の大同化学工業)へとそれぞれ分離された。 電気事業専業となった大同電力は、以降電力設備の建設を進め、1922年7月に関西地方への送電を始めるなど、設備の拡充と供給の拡大を推進した。発足以降の沿革は、以下、建設、供給、業績の推移に分けて記述していく。
※この「大同電力の発足」の解説は、「大同電力」の解説の一部です。
「大同電力の発足」を含む「大同電力」の記事については、「大同電力」の概要を参照ください。
- 大同電力の発足のページへのリンク