供給の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:50 UTC 版)
粕川開発とともに岐阜電気では西濃地方への進出を図り、1909年(明治42年)3月5日付で安八郡大垣町(1918年より大垣市)に支店を開設、同年6月より大垣町への供給を開始した。また同年内に今川町の火力発電所を復活させ(出力は当初40 kW、9月以降100 kW)、12月には小宮神発電所の発電機を増設してその発電力を350 kWとした。合計450 kWの供給力に対し、12月末時点での供給区域は岐阜市・稲葉郡加納町・同郡北長森村・安八郡大垣町の4市町村、取付灯数は1万1960灯であった。また下期中に動力用電力供給も開始されており、12月末時点で電動機31台81 kWを岐阜市内に取り付けていた。動力の用途は精米・製材を中心とする。 大垣への供給開始後も岐阜電気の供給区域は拡大の一途をたどった。岐阜周辺では1910年(明治43年)より羽島郡笠松町と同郡竹ヶ鼻町(現・羽島市)への供給を開始。その後も1912年(明治45年)より本巣郡北方町、翌1913年(大正2年)より山県郡高富町(現・山県市)への供給も始めた。西濃方面では1911年(明治44年)より不破郡赤坂町(現・大垣市)および養老郡高田町(現・養老町)、1912年(大正元年)より揖斐郡揖斐町(現・揖斐川町)・安八郡神戸町・不破郡垂井町にてそれぞれ供給を開始している。 こうした供給区域拡大に並行し、電源増強策も矢継ぎ早に実行された。まず需要増加の応急対策として1910年6月火力発電所に60 kW発電機が増設される。続いて粕川で第二水力発電所(河合発電所)の建設に取り掛かるが、需要急増でその完成を待つ余裕がないため出力300 kWの第二火力発電所を1910年12月に完成させた。河合発電所の竣工は1913年5月のことであるが、その間の1911年10月上旬ついに供給力の限界に到達したため、名古屋電灯長良川発電所(武儀郡洲原村=現・美濃市所在)から600 kWの受電を決定した。受電設備の完成に伴い受電は翌1912年3月中旬より開始。同年9月にはさらに600 kWの追加購入も契約している。 逓信省の資料によると、河合発電所完成後の1914年(大正3年)時点における岐阜電気の供給力は計2,650 kWであり、小宮神発電所350 kW・河合発電所800 kW・今川町火力発電所300 kWと名古屋電灯からの受電1,200 kWからなる。同年11月末時点での供給区域は岐阜市ほか38町村に及んでおり、供給成績は取付電灯数3万9930灯・電力供給1,239 kW(他の電気事業者に対する電力供給を含む)であった。逓信省の資料によれば岐阜電気から受電する電気事業者は電気鉄道を運転する美濃電気軌道(1911年2月開業)・長良軽便鉄道(1913年12月開業)・岐北軽便鉄道(1914年3月開業)である。 なお岐阜電気では設立から1910年代前半までの間に2度の増資が実施されている。1度目は20万円の増資で1909年3月に決議。2度目の増資は1911年5月に決議され、資本金は100万円増の150万円となった。
※この「供給の拡大」の解説は、「岐阜電気」の解説の一部です。
「供給の拡大」を含む「岐阜電気」の記事については、「岐阜電気」の概要を参照ください。
- 供給の拡大のページへのリンク