供給の広域化
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「中部電力 (1930-1937)」の記事における「供給の広域化」の解説
1924年(大正13年)1月、岡崎電灯は5番目の水力発電所として百月(どうづき)発電所の建設に着手し、同年2月には建設中の大浜火力発電所(出力4,000 kW)を竣工させた。百月発電所は西加茂郡小原村の矢作川本流部にて1921年4月に水利権を得た地点。大浜火力発電所は碧海郡大浜町(現・碧南市)に位置する。発電所新設に伴いようやく供給力不足は解消し、逆に余力を生ずるようになる。そこで大口供給先を開拓するという経営方針を打ち出し、供給区域外の地域に進出して1924年1月より渥美半島の渥美電鉄、6月より三河セメントへの供給を開始して東三河への進出を果たした。 翌1925年には岐阜県にも進出し、土岐郡多治見町(現・多治見市)の電力会社中部電力(多治見)への送電を開始した。同社は1924年1月、資本金200万円で発足。母体は多治見電灯所といい、多治見の雑貨商加藤嘉平とその弟乙三郎(先代)が1906年(明治39年)に創業した電気事業が起源で、長く合名会社組織のまま経営されてきていた。これを株式会社組織に改める際に岡崎電灯との提携がなされ、岡崎電灯が株式の半数を持つことで中部電力が発足したのである。岐阜県進出の一方、既存区域でも電灯供給を積極化し、1925年秋にははじめての高燭化(燭光数の高い明るい電灯への変更)の勧誘を実施、一気に供給燭光数30万燭の増加をみた。1925年11月末時点の供給成績は電灯数21万4189灯・電力1万1246馬力 (8,386 kW) に及んだ。 1926年3月、百月発電所(出力5,280 kW)が完成し、1927年(昭和2年)5月には大浜火力発電所の増設(出力6,000kW追加)も竣工した。また1923年に株式の半数を持って水窪川(静岡県)開発のために水窪川水力電気(詳細後述)という発電会社を設立していたが、同社からの受電が1928年(昭和3年)2月より始まった。これらにより供給力不足の懸念は消滅し、営業方面への集中が可能となった。送電網が広域化する中、岡崎電灯では岡崎と静岡県の宮口開閉所を結ぶ送電線の途中、豊橋郊外の八名郡石巻村(現・豊橋市)に東三河の供給拠点として玉川変電所を新設する(1927年5月完成)。水窪川水力電気からの受電に際しては、同社が水窪川の西渡発電所から玉川変電所まで自社の77キロボルト (kV) 送電線を架設、変電所にて33kVへ降圧してから岡崎電灯が受電するという形がとられた。 水窪川水力電気に関連して静岡県側にも大口需要家が出現した。浜松の北に位置する浜名郡北浜村(現・浜松市浜北区)に誘致され1926年11月に操業を開始した日清紡績浜北工場がそれで、同年11月3日より供給を開始したのである。供給高は当初800kW、工場拡張後2,200 kW。浜松方面は当時東邦電力傘下の東京電力(旧・早川電力、早川電力時代に日英水電を吸収)が供給をほぼ独占していたが、日清紡績に水窪川水力電気の株式を引き受けてもらい岡崎電灯経由で送電するという提携が成立したため供給が可能となった。こうした大口供給以外にも引き続き電灯の高燭化勧誘が展開されており、1927年春2度目の勧誘により50万燭増加、1928年春には3度目の運動により70万燭増加という好成績を挙げた。供給成績は1929年(昭和4年)11月末時点で電灯26万1997灯・電力1万9925馬力 (14,858 kW) であった。 岡崎電灯の需要開拓には電気鉄道への積極的供給も含まれた。ほかの電力会社が負荷率の低さから供給を渋る中、岡崎電灯はその隙間を埋めたのである。上記の通り1924年1月現在の豊橋鉄道渥美線にあたる渥美電鉄への送電を始めたのち、1926年にかけて現在の豊橋鉄道東田本線にあたる豊橋電気軌道、現在のJR飯田線南部にあたる豊川鉄道・鳳来寺鉄道、現在の名鉄三河線にあたる三河鉄道、現在の名鉄西尾線にあたる碧海電気鉄道と新規供給を開始。次いで1928年3月からは静岡県側、現在の遠州鉄道鉄道線にあたる遠州電気鉄道への供給も開始している。最後に同年10月、岡崎と西尾方面を結んだ愛知電気鉄道西尾線も加わった。 経営面では、1927年(昭和2年)2月15日、前述の岡崎殖産を合併した。さらに同年6月には1180万円の増資を決議して、資本金を2300万円としている。
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