九州電気への改組
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広滝水力電気では、供給の拡大に伴い広滝発電所だけでは供給力不足となる懸念が生じたことから、波佐見鉱業(現・共立)の古湯発電所を30万円で買収する方針を固め、1910年4月に買収契約を締結した。この古湯発電所(買収後は川上川発電所と称する)は1902年(明治35年)10月の建設で、佐賀県佐賀郡小関村(現・佐賀市)に位置する川上川(嘉瀬川上流部)の水力発電所である。11キロボルト送電線を繋いで長崎県の波佐見鉱山まで送電していた。 買収契約締結に際して会社で発電所の立地する川上川の全流域について調査したところ、川上川ではさらなる電源開発が可能であると判明した。しかしその開発には膨大な資金が必要であり、広滝水力電気の資金調達力では実現できないものと考えられた。そこで経営陣は、福澤桃介を中心とする投資家グループの協力の下に新会社を設立し、これに広滝水力電気の事業・権利一切を引き継がせて新会社によって電源開発を遂行する、という方針を打ち出した。新会社の発起人総代には松永安左エ門が就き、1910年8月に広滝水力電気との間に合併契約を締結。同年9月5日に新会社「九州電気株式会社」の創立総会が開かれ、資本金200万円にて新会社の発足をみた。 新会社九州電気の役員は、広滝水力電気側から社長の中野致明、専務の伊丹弥太郎、取締役の大島小太郎ら計6人、福澤グループから取締役の福澤桃介・松永安左エ門・田中徳次郎・中野実ら計6人と、両派同数で構成された。新重役のうち松永は福澤の慶應義塾時代の後輩で、福澤とともに設立に参加した福博電気軌道(1909年設立)で専務になったことから1909年夏より福岡を本拠に活動していた。九州電気においても追って1911年(明治44年)1月常務に就任している。この松永の推挙により、会社設立時から前三井銀行大阪支店長の田中徳次郎が取締役兼支配人となり会社実務を担当した。田中も慶應義塾出身で松永の同窓生であった。なお広滝水力電気専務の牟田万次郎は九州電気では役員に就いていない。 1910年9月23日の株主総会にて九州電気は広滝水力電気の合併を議決し、同年11月29日付で合併を完了した。合併後の資本金は270万円となっている。12月には波佐見鉱業からの川上川発電所買収も実行に移されている。 川上川発電所を買収した九州電気では、まず同発電所からの電力を受ける変電所を2か所に新設し、佐賀県西部の牛津・武雄・伊万里方面への配電を始めた。次いで1911年12月には佐賀および唐津への送電線を新設している。唐津送電線・同変電所の建設に伴い、同地の火力発電所(唐津発電所、出力120キロワット)は廃止となった。またこれとは別に県東部の鳥栖にも同年8月変電所を設置し、広滝発電所からの送電を開始した。業績について見ると、九州電気改組後も増収増益を重ね、改組で資本金が増加したため広滝水力電気時代より資本利益率・配当率ともに低下していたものの、1911年下期に配当率を年率7パーセントから9パーセントへと引き上げるなど順調に業績を伸ばした。
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