慶應義塾時代とは? わかりやすく解説

慶應義塾時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 01:25 UTC 版)

江藤淳」の記事における「慶應義塾時代」の解説

1953年東京大学文科二類現在の文科三類に相当)を受験して失敗慶應義塾大学文学部教養課程)に進む。日比谷高1950年都立一中から改称)の教師から「慶應経済学部かね。なに、文科? 君も案外伸びなかったね」とあからさまに軽侮されたため、以後二度と日比谷高門をくぐるまいと誓った。ただ晩年は、日比谷高校OB講演会「トワイライトフォーラム」の講演引き受けるなど、問題内面的には既に氷解していたようである。 なお慶應入学前後に福沢諭吉読んで感銘を受け心酔福沢主著作家行動する』において重要なモチーフとなっている他、度々福沢について論じた以後母校慶應には愛着隠さず教授として招聘され時の喜びを後に素直に語っている(『国家とはなにか』)。 1954年4月専門課程への進学に際して英文科を選ぶ。吉田健一英国文学』の影響大きい。 1954年6月喀血して自宅療養1955年当時編集長だった山川方夫依頼で『三田文学』に「夏目漱石論」を発表初め江藤淳名乗る1957年3月慶應義塾大学文学部文学科(英米文学専攻)を卒業卒業論文テーマローレンス・スターン同年4月慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程に進む。指導教授西脇順三郎からは嫌われていたという。西脇江藤の姿を教室認めるや、「今日江藤君がいるから授業しない」と宣言したこともあったという。同年5月大学同級生だった三浦慶子結婚後年先輩安岡章太郎から「慶子さんと付き合うためにわざと東大落ちたんじゃないか」と揶揄されたが、江藤は「ぼくは真面目に受けて落ちたんですよ」と答えた1958年大学院生ありながら文芸誌評論執筆し原稿料稼いでいたことが教授会から問題視され退学勧告されたが、授業料のみ納入し抵抗の意味不登校続ける。同年11月文藝春秋から『奴隷思想排す』を上梓1959年1月講談社から『作家行動する』を上梓同年3月退学届け提出し正式に大学院中退

※この「慶應義塾時代」の解説は、「江藤淳」の解説の一部です。
「慶應義塾時代」を含む「江藤淳」の記事については、「江藤淳」の概要を参照ください。

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