慶應義塾大学入学〜一水会代表として
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1988年(昭和63年)、慶應義塾大学法学部政治学科(乙類)に入学し、英語の単位修得に苦労するも、社会政治活動と両立させ、1996年(平成8年)卒業。学士(法学)。同年、慶應義塾大学三田会の会員になる。在学中は憲法改正論を研究テーマに卒業論文を執筆する。その後、慶應義塾大学大学院法学研究科科目等履修生となり外国法を学ぶと共に、慶應義塾大学のOB有志で学徒出陣塾員・塾生の出征兵士の資料を学ぶ。 1992年(平成4年)、一水会書記長となる。4月にバグダッドを訪問し、バース党との間に「反大国主義、民族自決」を原則とする議定書を交わし調印。「対米自立」という観点を堅持しつつ、国際的な視点から湾岸戦争以降のイラク、NATO空爆後のユーゴスラヴィア(現セルビア・モンテネグロ)などを訪問。そのほか、フランス、ドイツ、ロシア、リビア、シリア、マレーシアなど各国の民族主義政党・団体と交流し、民族派同士の国際連帯を構築している。イラクには二十回以上足を運んでいる。 1998年(平成10年)、バグダッドに本部のある国際組織「NASYO」(非同盟諸国学生青年会議)常任理事に就任。 2000年(平成12年)2月、一水会代表に就任。 2002年(平成14年)、ロシア自由民主党のジリノフスキー党首が主催する「世界右翼政党会議」に参加。フランス国民戦線などと共に、「愛国者インターナショナル」会議に参加。南北問題の是正と反グローバリゼーションの活動を展開する。 2003年(平成15年)3月、アメリカのイラク侵略攻撃に断固抗議。侵略直前、バグダードでの国際会議でアメリカの侵略戦争に抗議する。イラク攻撃の理由とされた「大量破壊兵器」保有疑惑については、一貫して「イラクは大量破壊兵器を保有していない」と攻撃前から主張。 2007年(平成19年)1月、前年12月に処刑されたサダム・フセイン大統領の追悼会を日本で唯一行う。 一水会機関紙「月刊レコンキスタ」では、追悼文を掲載。著名な講師陣を招いての一水会フォーラムの講演録をムック化した『せめぎあう言霊』を発刊。また、木村ゼミを主宰し、「右翼民族派の思想と行動」を毎月一回講義している。2009年(平成21年)度は第六期生まで数えている。 2010年(平成22年)1月18日、フォーラム神保町と現代深層研究会主催の緊急シンポジウム「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」に、青木理、魚住昭、大谷昭宏、岡田基志、郷原信郎、佐藤優、鈴木宗男、田原総一朗、平野貞夫、宮崎学らとともに参加した。フォーラムの中で木村は、ネット右翼について論評し、差別用語や蔑視する言葉、相手に対してえげつない言葉を使っているとして、「右翼の品格にあらず」と批判した。 2010年(平成22年)5月、グルジアからの独立を果たした南オセチア共和国を一水会代表団として訪問し、ココイトイ大統領、外務大臣、国会議長らと会見した。その後、ロシアのモスクワにて北方領土問題の解決や日ロ関係の打開のため、ロシア外務省のガルージン局長と会談。 2010年(平成22年)8月12、13日、東京にて「世界平和をもたらす愛国者の集い」を開き、国民戦線のジャン=マリー・ル・ペン党首ら欧州の愛国政党党員を招いた。翌日、彼らを率いて靖国神社を参拝する。
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