憲法改正論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
三島はまず、戦後GHQ占領下で定められた現憲法を〈国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられた〉憲法であるとし、この憲法自体が「政体」と「国体」について確たる弁別を定立していない問題に触れつつ、「国体」は〈日本民族日本文化のアイデンティティー〉であり〈政権交替に左右されない恒久性〉がその本質であって、「政体」はこの国体維持という〈国家目的民族目的〉に最適の手段として国民によって選ばれるが、政体自体は〈国家目的追求の手段〉であって「民主主義」とは〈継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない〉としている。 その意味で旧憲法の明治憲法は〈民族的伝統〉と〈西欧の法伝統〉とを調和させ、〈国体と法体系の間の相互の投影を完璧にした〉憲法であったと三島は説明し、かたや何ら日本人の内発性の発生でなく制定された戦後の現憲法ではそれがなく、〈相反する二種の国体概念〉が、〈国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図〉を含んで〈並記〉され、〈国民の忠誠対象〉を〈二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐる〉ことを問題視している。 そして、その〈相反する二種の国体概念〉のうち、一つは、本来の日本国民の忠誠対象である国体(〈歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するもの〉)であり、もう一つはそれと相反する〈革命政権における国体〉ともいうべき概念であると三島は説明し、その新たに並記された〈未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の理想主義〉を本質とする概念(日本伝来の自然法を裁くもの)が、日本弱体化の〈政治的企図〉を含んだ〈似而非(えせ)国際主義〉への新たな忠誠対象として対立矛盾して組み入れられたことを批判し、〈これが憲法第一章と第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである〉と述べている。 その第二章の日本国憲法第9条を三島は、〈国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した〉条項であるとして、〈一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした〉ものとして唾棄し、この条文が〈敗戦国日本の戦勝国への詫証文〉であり、〈国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの〉であると断じている。 そして、いかなる戦力(自衛権・交戦権)保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても〈丸腰〉でなければならず〈国家として死ぬ〉以外にはないため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員したうえで〈牽強付会の説〉を立てざるを得なくなり、こういったヤミ食糧売買のような行為を続けることは、〈実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大〉するとしている。 このように三島は、平和憲法と呼ばれる憲法第9条により、〈国家理念を剥奪された日本〉が〈生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること〉になったことを、〈完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす〉とし、〈戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない〉と批判している。 また、現状では自衛隊は法的に〈違憲〉だとし、その自衛隊の創設が、皮肉にも〈憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくもの〉であり、朝鮮戦争やベトナム戦争の参加という難関を、吉田内閣がこの憲法を逆手にとり、〈抵抗のカセ〉として利用することで突破してきたが、その時代を過ぎた以降も国内外の批判を怖れ、ただ護憲を標榜するだけになった日本政府については、〈消極的弥縫策(一時逃れに取り繕って間に合わせる方策)にすぎず〉、〈しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大〉し、〈平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく〉と警鐘を鳴らしている。 これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては〈やや賛成〉としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を〈世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき〉とし、〈日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和〉であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは自国の歴史・文化・伝統の自主性が〈二次的副次的〉なものになり、〈敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと〉になるため、〈第九条全部を削除〉すべしと主張している。 さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、第20条「信教の自由」に関する〈神道の問題〉(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、日本が独立国としての〈本然の姿を開顕〉できず、逆に〈アメリカの思ふ壺〉に陥り、憲法9条だけ改正して日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国やアジア反共国家と並ぶだけの結果に終わると警告している。 三島は、外国の軍隊は決して日本の〈時間的国家の態様を守るものではないこと〉を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい〈建軍の本義〉を規定するためには、憲法9条全部を削除して、その代わりに〈日本国軍〉を創立し、憲法に〈日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される〉という文言を明記するべきであると主張している。 自国の正しい建軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。 — 三島由紀夫「問題提起」 また、1970年(昭和45年)2月19日に行われたジョン・ベスターとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず〈憲法違反〉を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は〈偽善のもと〉、〈憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と語っている。
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