中等学校教員時代
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1876年(明治9年)、父の新潟裁判所転任にともなって新潟に移り、7月に官立新潟英学校英語教員心得の職を得た。翌年3月、新潟英学校が県立新潟学校英語教場に改組された際には同校百工化学教場助手となり、次いで英語教場訳読教師、舎中監事を兼任した。百工化学教場では教諭中川謙二郎の元で物理学、化学などを実習し、科学的実験・研究法を学んでいる。同校での教え子には、後に東京師範学校や金港堂で同僚となる新保磐次、歴史・地理学者となる吉田東伍、工学博士となる近藤虎五郎らがいた。また同校時代には外国人から製造化学を学んでおり、1879年(明治12年)7月に製造工業の道に進むことを志して新潟学校を辞し、再度上京したが、当時の工業社会には適当な職が見つからなかったという。 東京では結局、草野政信宅に寄寓し、旧藩主である紀州徳川家の家扶上田章に漢文を学びながら同家の蔵書(後の南葵文庫)を借覧する機会を得ることになった。ここで和漢の史籍を目にしたことがきっかけで、三宅は科学的な日本史研究の必要を覚え、歴史学者の道を歩むことになる。1880年(明治13年)3月、新潟学校時代の校長で千葉師範学校長となっていた小杉恒太郎の招きを受けて同校教師となり、間もなく千葉中学校教師、および両校の舎中幹事を兼任した。千葉中学校では主に物理と化学を教授し、教え子の中には、後に歴史学者となる白鳥庫吉、外務大臣を務める石井菊次郎、京都府知事となる木内重四郎がいた。 翌1881年(明治14年)3月、慶應義塾時代の教員で東京師範学校長補の職にあった高嶺秀夫に招かれて同校雇教員に転じ、次いで助教諭となった。同校では歴史と英語を担任し、附属小学校でも物理と化学を教えたという。
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