中等学校教員時代とは? わかりやすく解説

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中等学校教員時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 02:10 UTC 版)

三宅米吉」の記事における「中等学校教員時代」の解説

1876年明治9年)、父の新潟裁判所転任ともなって新潟移り7月官立新潟英学校英語教員心得の職を得た翌年3月新潟英学校県立新潟学校英語教場改組された際には同校百工化学教場助手となり、次いで英語教場訳読教師、舎中監事兼任した百工化学教場では教諭中川謙二郎の元で物理学化学などを実習し、科学的実験・研究法を学んでいる。同校での教え子には、後に東京師範学校金港堂同僚となる新保磐次歴史・地理学者となる吉田東伍工学博士となる近藤虎五郎らがいた。また同校時代には外国人から製造化学学んでおり、1879年明治12年7月製造工業の道に進むことを志して新潟学校辞し再度上京したが、当時工業社会には適当な職が見つからなかったという。 東京では結局草野政信宅に寄寓し旧藩主である紀州徳川家家扶上田章漢文学びながら同家蔵書(後の南葵文庫)を借覧する機会を得ることになった。ここで和漢史籍を目にしたことがきっかけで、三宅科学的な日本史研究の必要を覚え歴史学者の道を歩むことになる。1880年明治13年3月新潟学校時代校長千葉師範学校となっていた小杉恒太郎招き受けて同校教師となり、間もなく千葉中学校教師、および両校の舎中幹事兼任した千葉中学校では主に物理化学教授し教え子中には、後に歴史学者となる白鳥庫吉外務大臣務め石井菊次郎京都府知事となる木内重四郎がいた。 翌1881年明治14年3月慶應義塾時代教員東京師範学校長補の職にあった高嶺秀夫招かれ同校教員転じ次いで助教諭となった同校では歴史と英語を担任し附属小学校でも物理化学教えたという。

※この「中等学校教員時代」の解説は、「三宅米吉」の解説の一部です。
「中等学校教員時代」を含む「三宅米吉」の記事については、「三宅米吉」の概要を参照ください。

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