中等学校への校舎転用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:32 UTC 版)
「大阪市立南小学校」の記事における「中等学校への校舎転用」の解説
大阪市では明治時代後期以降、中等教育諸学校の入学難状態が慢性化していた。中等学校の入学難解消の一環として、大阪市では1940年代、市立の中等教育諸学校を増設する策がとられた。 また太平洋戦争の戦時体制の一環として、男子商業学校を工業学校へと転換させる政策もおこなわれた。これに伴う商業学校不足に対応して女子商業学校を増設して戦時動員を図る体制がとられた。 中等学校の校地を探し校舎を新設する余裕がないとして、既存の国民学校を近隣校に統合させる形で廃校とし、空いた校舎を中等学校として転用する策をとった。 地域では御津・芦池・河原の3校が校舎転用の対象となった。 御津国民学校は1944年に大宝国民学校に統合されて閉校となった。跡地に御津女子商業学校(1948年天王寺商業学校と合併、のち大阪市立天王寺商業高等学校)が新設された。 芦池国民学校は1944年に渥美国民学校に統合されて閉校となった。跡地に芦池女子商業学校(1948年住吉商業学校と合併、のち大阪市立住吉商業高等学校)が新設された。 河原国民学校は1944年に精華国民学校に統合されて閉校となった。跡地には河原女子商業学校(1948年学制改革で廃校)が設置された。 1944年時点では、地域の国民学校は精華・大宝・渥美・道仁の4校となった。
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