株式買収と社長就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
日露戦争後の株式相場で財を成し各方面に投資を広げていた桃介は、1907年、ヨーロッパにて水力発電所からの長距離送電が成功したことを知り、名古屋の友人下出民義宛に名古屋周辺で水力発電に有利な場所があるならば調査して欲しいという手紙を出した。これに対して下出は、鈴木久五郎が破綻して引受け先がなくなっていた増資株式5000株を買って名古屋の電力会社名古屋電灯へ投資するよう勧めた。この時の桃介は下出の誘いを受けなかったものの、同社の経営事情を検査したことのある慶應義塾の先輩矢田績(当時三井銀行名古屋支店長)が検査書類を携え訪れて名古屋電灯を経営しないかと誘うと、桃介は同社への投資を決定する。そして1909年2月自ら名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた。同年3月、名古屋電灯の株主名簿に福澤桃介の名が初めて登場。6月末までに5千株余りを買収し、さらに翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主となった。下出によれば買収資金の出所は三菱銀行であったという。 桃介の進出に対し名古屋電灯側は1909年7月、矢田の仲介で桃介を顧問とし、同年10月には相談役のポストを新設して迎えた。さらに翌1910年1月28日付の株主総会にて取締役に選出、同年6月1日には佐治儀助に代わって常務取締役に互選され同社の経営に深く関与する立場となった(当時社長は空席、常務は創業者の三浦恵民も在任)。名古屋電灯に乗り込むと、桃介は有力な競合会社名古屋電力の合併を画策する。この名古屋電力は1906年名古屋や東京の資本家らにより設立、名古屋財界の奥田正香が社長を務め、渋沢栄一ら東京の大物実業家も関与する新興の電力会社で、木曽川開発を手がけて岐阜県にて八百津発電所を建設中であった。下出や矢田に斡旋を頼みつつ7月には桃介自身が2週間名古屋に滞在して合併反対派の翻意に努め、8月株主総会にて合併を決定。10月28日付で合併が成立するに至り、名古屋電灯は資本金775万円の電力会社となった。なお合併後の11月25日付で桃介は名古屋電力から取締役となった兼松煕に常務を譲り、平取締役に下がっている。 名古屋電灯ではその後、先に名古屋電力が着工していた八百津発電所が1911年(明治44年)10月に完成。供給の拡大に要する費用を調達するため完成に先立つ同年4月、資本金を1600万円とした。これらの組織拡大により社長職を置くことになり、名古屋市長在任中の加藤重三郎を招致、加藤は市長辞職の上で7月社長に就任した。しかし工事費の負担と余剰電力が重荷となり、1912年以降同社の業績は悪化してしまう。経営が悪化するにつれて株主の不満が高まって経営を刷新すべきという声が大きくなり、やがて豊橋電気の再建や九州での実績からその手腕を期待して取締役の福澤桃介に経営を一任すべしという意見が強くなっていった。現経営陣への批判が強くなった結果、常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任。次いで12月には新役員選任を株主総会で一任された桃介の指名によって新体制が発足。そして翌1913年(大正2年)1月27日付で、社長留任の加藤重三郎の下で桃介は常務取締役に復帰した。常務に就くと九州電灯鉄道支配人であった角田正喬を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、経営改革を進めた。 名古屋電灯における活動を再開しつつあった1913年秋、社長の加藤重三郎らが遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された。加藤らは1913年12月の第一審での有罪判決ののち翌1914年(大正3年)の第二審で無罪となったが、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に桃介を社長代理に指名する。さらに同年12月加藤が取締役社長を辞任すると、翌1914年12月1日付で桃介を後任社長に選出した。桃介の社長就任とともに下出も常務取締役に昇格し、1918年(大正7年)2月に副社長のポストが新設されると副社長に就任している。その下出によると、社長となっても桃介は月に2回程度名古屋を訪れるだけのため、下出が「留守師団長の格」で会社経営にあたっていたという。
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