経営事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:46 UTC 版)
カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、呉市、中国新聞社、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは1960年代まで続いた。 しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任している。 1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の松田恒次がそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。 1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて広島市民球場 (初代)フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。さらに1970年代後半に住友銀行の管理下となった際に、松田家が球団と地元ディーラーの経営のみの担当となったことから、東洋工業→マツダは実質的にオーナー会社でなくなった。これはマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし、現在でも筆頭株主であることから(下記参照)、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を残している。 現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からアテンザを筆頭にマツダ車に採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。 経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている。特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した。 ただし、この売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した。これは2004年の球界再編を契機にセ・パ交流戦が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。 2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて、2010年は一軍寮の建設(2億円)、2012年はクリーニング工場の建設、2014年は二軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円)等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国のカープアカデミーは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。 その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。 これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8,900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、江藤智、金本知憲、新井貴浩、アンディ・シーツ、グレッグ・ラロッカと相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただし、マツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8,585万円となった[要出典]。 このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。 2020年は新型コロナウイルス感染拡大により公式戦の入場者数が制限された影響などを受け29億3,487万円の当期損失となり赤字決算となったものの、経営状況は良好で、赤字決算は1974年以来46年ぶりであった。売上高は2年連続の減収かつ前年比83億4,489万円減の85億5,735万円となり、9年ぶりに100億円を下回った。入場料収入は41億3,500万円減の16億6,000万円、グッズ収入は22億8,800万円減の13億5,600万円で、それらとは別に消毒やPCR検査などコロナ対策で約1億円を投じた。同時に、資本金をそれまでの3億2,400万円から5,000万円に減資したことで、税法上では中小企業の扱いとなり、税の優遇措置を受けられるようになった。
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