経営不振と近畿日本鉄道と京阪電気鉄道の経営参加の確執
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「奈良電気鉄道」の記事における「経営不振と近畿日本鉄道と京阪電気鉄道の経営参加の確執」の解説
1953年9月に近畿地方を襲った台風13号は未曽有の災害をもたらした。この台風で宇治川(淀川)左岸は澱川橋梁下流0.6kmおよび2.0kmの地点で決壊、旧巨椋池を中心とする2,000ヘクタールにおよぶ地域が浸水し、奈良電気鉄道は桃山御陵前駅から奈良電小倉駅間で延長2.0kmの冠水、久津川・新田辺など全線23箇所で線路路盤流出など大きな被害を受けた。さらに1954年3月には並行する国鉄奈良線でディーゼルカーの運転が開始。また、伊勢湾台風でも大きな被害を受け、度重なる労働争議もあって経営は悪化、1955年上期には1割だった株式配当が下期には6分、1958年には無配に転落するに至った。1959年ごろから株主総会のたびに再建問題の質疑応答がくりかえされるようになった。だが、当時の奈良電の株主構成は京阪電気鉄道、近畿日本鉄道、一般株主がそれぞれ3分1ずつで均衡しており、大株主の京阪電気鉄道、近畿日本鉄道と奈良電の三者で再三にわたる折衝が行われたが事態は進展せず、奈良電経営陣は京阪電気鉄道と近畿日本鉄道という同業の大株主の利害関係の衝突に巻き込まれ、独自の経営戦略に基づく思い切った設備投資や沿線開発などで経営再建を図ることもできない状況に追い込まれていった。 1958年下期ごろから近畿日本鉄道は京都進出を目的とし、同社主導で奈良電の経営再建をすすめるため、奈良電株の取得をはじめた。この結果、株価の最高値は1958年の時点では153円だったものが1962年には755円にまで高騰した。これに対し京阪電気鉄道は1959年5月から今田英作(当時 副社長)を取締役に岡林事(当時 常務取締役)を監査役に派遣する。だが、この当時京阪電気鉄道では自社淀屋橋延長線の建設(1959年2月特許、1963年4月開業)や激化する通勤輸送対策として1957年以降開始された輸送力増強5カ年計画、比叡山ドライブウェイの建設・開業(1958年4月開業)やバス路線網の拡充、江若鉄道の子会社化(1961年7月)をはじめとする琵琶湖沿岸地域の開発、水害やダム建設で経営難に陥った宇治田原自動車の救済を目的とした株式の過半数取得と京阪宇治交通への社名変更(1959年5月 - 6月)など巨費を要する事業が多数、それも同時並行で実施されており、財政的に厳しい状況にあった。 このような財政事情に加え、奈良電創業以来長年培ってきた関係を過大に評価したことなどから、京阪電気鉄道は近畿日本鉄道による株式買収に対し受動的な対応を行うにとどまった。近畿日本鉄道の株式買収が公然化した1960年には、京阪電気鉄道と奈良電は合併に向けた検討を行うが、1961年9月には近畿日本鉄道約89万株(持ち株比率約47%)、京阪電気鉄道71万株(同37.4%)となり、大阪商工会議所会頭杉道助らによる共有案や、当時関西電力社長の太田垣士郎(元京阪神急行電鉄社長)による「丹波橋駅以南は近畿日本鉄道、丹波橋駅以北は京阪電気鉄道」という具体斡旋案が示されたが、近畿日本鉄道の当時社長であった佐伯勇は『レールは1本で、2つに分けることはできん』との強い買収方針は覆らず、太田垣士郎による以下の最終斡旋案で妥結することとなった。 (1) 京阪電気鉄道は所有する奈良電気鉄道株を1株850円で売却する。 (2) 京都 - 奈良間のバス路線(国道24号線乗合バス事業)を京阪自動車に譲渡する。 (3) 相互乗り入れ運輸協定は将来も現行通りとする。ただし、協定当事者合意の上改変するときはこの限りでない。 以上を骨子とする太田垣士郎の斡旋案に1961年12月11日3社で調印、奈良電気鉄道は近畿日本鉄道系列に収まるに至った。なお、京阪電気鉄道は1962年4月27日に71万5000株、1963年に残り680株を売却、今田英作、岡林事両役員も1962年5月7日付で退任し、奈良電との資本関係は幕を引くことになり、将来的に国鉄京都駅および奈良への足かかりを失う結果となった。
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