経営不振と資金流用問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/30 04:27 UTC 版)
「入間馬車鉄道」の記事における「経営不振と資金流用問題」の解説
ところがせっかく地域の期待の星として華々しく開通したにもかかわらず、入間馬車鉄道の経営は当初から不振を極めることになった。 その理由として、輸送対象として当て込んでいた伝統織物・魚子織などの織物産業がこの時期にわかに不振となってしまい、旅客・貨物ともに減少に転じていたことがある。また、軌間の狭さや交換設備の不備がうらみとなり、旅客列車運転の合間合間に貨物輸送を行うという非効率な輸送法を行っていたため、思うような実績が上がらなかったことも原因である。 またそれ以前に、会社自身も負債を抱えていた。まず建設時に、目論見書通りの株式購入金の払い込みがかなわなかったことがかなり大きい。株式を購入してもらうことはつまり資金調達と同義であり、資金不足で路線建設に臨まなければならなかったのである。さらに建設するうちに予想だにしない経路変更や路線延長が発生、その分建設費が増大してさらに負債が増えてしまっていた。 この会社の負債に関し、開業翌年の1902年8月に会社を揺るがす事件が起こった。社長の増田が、自分が頭取を務める入間銀行の金5万円余りを密かに工事費用として流用したという事実が発覚したのである。増田にしてみれば弱り切った末のやむにやまれぬ処置であったが、今度はこの内密の金をどう帳簿上処理するかが問題となり、苦し紛れに社債として発行しようとしたものの、これを知った株主の大反発により明らかになったものであった。 この事件は一時訴訟沙汰になりかけたものの、仲裁により臨時株主総会を開いて対処を協議することになった。この総会では経営陣が総辞職、調査委員により創業以来の経理調査が行われることが決定した。さらに経営陣も改選され、社長に当馬車鉄道の創始者である清水が就任することになった。 しかし事件はこれで終わらなかった。5万円の金は水富村の株主たちの強い訴えもあって増田個人の負債とされたのであるが、このことをめぐり入間銀行との訴訟合戦が勃発し、年単位で訴訟が続けられる事態となった。この訴訟費用も数千円単位の莫大なものとなり、会社の経営を圧迫することになる。 一方で、当馬車鉄道の経営状態自体も一向に改善する様子を見せなかった。当初から問題が続出していた貨物輸送はついに続けられなくなり事実上廃止され、貨物輸送を大きな収入源としてもくろんでいた当線の根幹を揺るがす事態となった。 さらに1904年に勃発した日露戦争も、当馬車鉄道に大きな打撃を与えた。軍馬が必要になったため、馬車鉄道にとっては生命線というべき馬が徴発されてしまい、運行回数を減らさざるを得なかったのである。そこへ来て馬の餌代の高騰、水害など自然災害による設備の修繕、馬の暴走などによって破損した客車の修繕など常に年数百円単位で金が出て行く状態が何年も続いた。
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