経営主への転向
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1960年代前半には、当時の映画館が21時半で終わっていたため、池袋や新宿の映画館を土曜の夜だけ借り、数人の踊り子と共に映画館でのストリップ興業も行なった。 後に小屋主から、小屋を買わないかと勧められ、1963年(昭和38年)に栃木県佐野市の佐野中央劇場を購入した。経営主としての最初となる興業では、斎藤自身が驚くほどの客の入りとなった。斎藤は後にこの興業を、最大の感動かもしれないと語っている。 翌1964年(昭和39年)には、宮城県仙台市と長野県の上山田町(後の千曲市)の劇場も購入した。特に上山田は、1970年代に戸倉上山田温泉が会社の慰安旅行で人気の地となり、温泉帰りの会社員が頻繁に劇場へ通って大入りとなったことで、斎藤にとって大きな収入源であった。 その後も日本各地の劇場の購入を続け、1970年(昭和45年)には、経営する劇場の数は20以上にのぼった。これは当時、ストリップの人気が徐々に下火になり、経営者たちが自分の所有する劇場を手放したがっていたという事情もあった。高度経済成長期であったことから、劇場以外にもホテル、マンション、映画館など、多くの不動産も購入した。 経営者の立場となった斎藤は、踊り子としての出番は減り、舞台に上がる機会は欠員の穴埋め程度になった。約70人の踊り子を抱え、日本各地の劇場やキャバレーからの要請に応え、踊り子を派遣した。当時の移動手段は、平成期のような営業車やタクシーではなくすべて電車であり、その電車が遅れても、連絡しようにも携帯電話すら無い時代であったため、踊り子たちのスケジュールは斎藤が完璧に管理しなければならなかった。ちらし張りから衣装作り、入場料の徴収まで自前でやった。 1967年(昭和42年)には、踊り子5人でヨーロッパ公演を行った。パリを皮切りに、イタリアやドイツにも足を延ばし、約半年の間、各地のナイトクラブなどで興行し、各地で大人気を博した。 1971年(昭和46年)、浅草の最老舗であるロック座と歩興業契約を結んだ。翌1972年(昭和47年)には自分の芸名から1字をとって株式会社「東興業」を興してロック座を登記し、正式にロック座を買い取った。費用について斎藤は後に「9000万円くらい」と振り返っている。前営業者が斎藤にロック座を売り渡した理由は、前述のようなストリップ人気の下火に加え、関西の劇場で流行した過激なショーに押されたこと、ストリップ劇場の幕間コントで芸を磨いたコメディアンが、次々とテレビ界に引き抜かれたことなどであった。 斎藤はロック座のオーナーとなって以来、AV女優などの若く美形の踊り子を舞台に立たせるなど、客の裾野を広げて舞台を発展させていった。また、それまでのストリップに付き物だったコメディや芝居を減らし、ついにはそれらを一切無くし、ストリップ1本で勝負していった。1973年(昭和48年)、ロック座の初代会長に就任した。長男の恒久に社長の座を継がせて舞台を一任し、自らは経営に専念した。 1984年(昭和59年)に浅草ロック座を、8階建ての鉄筋ビルに新装開館させ、照明と音響には2億円を投じた。これには、それまで自分が踊っていたストリップ小屋があまりに粗末だったことや、照明、音響、衣装、舞台装置があってこそ女の裸が光り輝くとの考えがあった。この設備一新は、頻繁にロック座の舞台に立った元AV女優の愛染恭子も「一流」と絶賛しており、後に「お客さんも上品な『浅草ロック座』に出演するのは、踊り子にとって最高のステータスでした」と語っている。この費用にあたっては、銀行の支店長が斎藤に惚れこみ「クビになってもいい」と2億円を貸したという。同1984年、斎藤の踊り子としての引退興行が行なわれた。 1990年(平成2年)には、当時16歳の家出少女を千葉の劇場責任者から紹介され、朝霞市内や上山田のショーに出演させていたことで、児童福祉法違反容疑で書類送検された。以来、踊り子の雇用には慎重を期すようになった。他にも自身の出演中に公然わいせつ罪で連行されるなど、計8回の逮捕歴があり、後年には前科8犯とも称していた。 1997年(平成9年)、TBSテレビのプロデューサーからの紹介により、ビートたけしが司会を務める深夜テレビ番組『新橋ミュージックホール』(よみうりテレビ)にゲスト出演し、これを機にたけしとの交友が始まった(後述)。 2000年(平成12年)に入る頃には、経営するロック座のチェーン店舗が全国で数館、所属する踊り子は約20人おり、上山田には約30人の芸者がいる置屋と居酒屋、キャバレーが各1軒、浅草には喫茶店と踊り子たちが住むマンション群があった。劇場の客席には裸目当ての男性客だけでなく、カップルや女性客も増えていた。
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