長期低迷
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「クリーブランド・ガーディアンズ」の記事における「長期低迷」の解説
1951年にはブードローに代わり、アル・ロペスが監督に就任。この頃には再びヤンキースが黄金期を迎え、インディアンスは優勝から遠ざかることとなった。戦力的にはヤンキースとほとんど遜色なかったが、優勝にはいま一歩及ばず、特に1951年から1953年までは3年連続でヤンキースに次ぐ2位に甘んじてしまった。1954年にはレモンとアーリー・ウィンが23勝をあげて共に最多勝、打撃陣ではラリー・ドビーが32本塁打・116打点で二冠王、ボビー・アビラが打率.341で首位打者を獲得。主要個人タイトルをインディアンスの選手がほぼ独占する形となり、チームは111勝43敗、勝率.721という圧倒的な成績で、3度目のリーグ優勝を遂げた。しかし、ワールドシリーズでは、ニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)に4連敗を喫してしまった(このシリーズではウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」と呼ばれる伝説的なプレーもあった)。以降、インディアンスは40年余りに渡ってワールドシリーズに進出できなかった。 1960年代に入ると、インディアンスの低迷は一層深刻なものとなった。1960年から1993年までの33年間で3位以上になったのは、1968年のわずか1回のみで、他は全て4位以下でシーズンを終えた。シーズン途中の監督の解任劇は毎年のように行われ、それでも状況が改善されることはほとんどなかった。1969年には地区制が導入され、インディアンスは東地区に所属することとなったが、チームは弱いままで、むしろ成績は下がる一方だった。1975年にはフランク・ロビンソンが選手兼任監督に就任。アフリカ系アメリカ人初のMLB監督となったが、結果を残せず、1977年のシーズン途中で監督を解任された。そんなチームの惨状に目をつけたのが、映画『メジャーリーグ』だった。1989年に公開されたこの映画は、後に続編も作られるほど大ヒットし、低迷していたインディアンスの観客数の回復に一役買ったとされる。しかし映画と同様にインディアンスが優勝に近づくには、あと数年は待たなければならなかった。
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長期低迷
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「アトランタ・ブレーブス」の記事における「長期低迷」の解説
1914年の躍進後、ブレーブスは再びリーグ優勝から遠ざかることとなる。1936年までに1915年と1916年、1932年と1933年の4シーズンを除いて、勝率5割を切るシーズンが続いた。レッドソックスがボストンのみならず、全米でも屈指の人気を誇るチームに成長するのとは対照的にブレーブスの人気は次第に下降し、本拠地球場のブレーブス・フィールドでは観客減に悩まされた。1923年からエミル・フックスがオーナーとなり、1928年にはロジャース・ホーンスビーをチームに招いた。ホーンスビーは首位打者を獲得するなど、額面どおりの活躍を見せたが、チームは低迷したままだった。この年のオフにはホーンスビーをカブスに1対5プラス20万ドルという当時としては破格のトレードで放出し、1929年にはフックス自らが監督を務めたが、状況は全く改善されなかった。元判事のこの人物は、アマチュア野球で捕手をやっていた程度の経験しか無かった。選手たちは監督の命令を無視し、コーチのジョニー・エバースの指示を仰いだ。ある時などエバースが「カウント2ボール1ストライクですが、どうしますか?」と聞くと、「ホームランを打つように言え」と返事をした。1935年にはニューヨーク・ヤンキースを退団したベーブ・ルースを獲得し、通算714号本塁打を記録したが、シーズン途中の6月限りで引退した。この年には、38勝115敗でMLBワースト3位となる勝率.248を記録するなど、チームはどん底の状態だった。 1935年のシーズン途中でフックスがオーナーを辞任。1936年には球団名を一般公募し、ボストン・ビーズと名前を変え、本拠地球場もナショナル・リーグ・パークに改称された。1937年には久々に勝率5割に復帰するが、1939年からは再び負け越しのシーズンが続いた。5年後の1941年には再びブレーブスに名前を戻すこととなり、球場の名前も従来のブレーブス・フィールドとなった。第二次世界大戦が終わった1946年、名将として名高かったビリー・サウスワースが監督に就任した。この頃にはウォーレン・スパーン、ジョニー・セインという左右のエースが台頭し始めており、この年には81勝72敗でリーグ4位、1947年には86勝68敗でリーグ3位になるなど、チームはかすかに上昇の兆しを見せ始める。
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長期低迷
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「カンザスシティ・ロイヤルズ」の記事における「長期低迷」の解説
1994年、3地区制導入によりアメリカンリーグ中地区に移動。この年はシカゴ・ホワイトソックスやクリーブランド・インディアンスと首位争いを演じていたが、232日間に及ぶ長期ストライキによってシーズンが中断される。 1995年は地区2位でシーズンを終えたが、首位インディアンスとは30ゲーム差という大差がついた。 1996年にはついに球団創設以来初めて地区最下位に沈んだ。1997年も64勝97敗と大きく負け越し、2年連続で最下位となった。 1998年にはタンパベイ・デビルレイズとアリゾナ・ダイヤモンドバックスが新加盟することに伴い、アメリカンリーグ中地区所属の球団をナショナルリーグに移籍することになった際(試合のない球団が極力発生しないように、両リーグとも球団数を偶数にする必要があったため。ただし2013年から両リーグ15球団ずつになった)、ロイヤルズはナショナルリーグ移動球団の第一候補とされた。しかし、ロイヤルズはアメリカンリーグ残留を表明し、これは回避された(その代わり、ミルウォーキー・ブルワーズがナショナルリーグへ移動した)。 2000年以降、チーム状況はより深刻なものとなる。 2002年には初めてシーズン100敗(62勝)を記録し、シーズン中に監督が2人も交代する事態となった。 2003年こそ勝率5割を上回ったが、翌年から3年連続でシーズン100敗を記録し、いずれも最下位でシーズンを終えた。 2007年はアレックス・ゴードン、ビリー・バトラーといった若手選手の奮起もあり、4年連続のシーズン100敗こそ回避したものの、69勝93敗で最下位となった。 2008年からは北海道日本ハムファイターズで監督経験のあるトレイ・ヒルマンが指揮を執った。また千葉ロッテマリーンズからフリーエージェントとなった薮田安彦を2年600万ドルの契約で獲得した。最終的にチームは地区4位となり、劇的な回復には至らなかったものの、5年連続の最下位は免れた。 2009年はクリーブランド・インディアンスと同率最下位(4位)に終わった。 2010年は序盤より最下位に沈み、5月13日にはヒルマン監督は成績不振のため解任され、後任には元ブルワーズ監督のネッド・ヨストが就任した。 2011年はシーズン前にエースのザック・グレインキーとショートのユニエスキー・ベタンコートをブルワーズに放出し、有望株アルシデス・エスコバーを軸に4人を得た。最初は若い選手の活躍もあり一時は2位まで上がる快進撃を見せたが、4位に終わった。しかし、メルキー・カブレラ、ジェフ・フランコーアなどが復活または自己最高の成績を残した。サードからレフトに転向したアレックス・ゴードンはゴールド・グラブ賞を獲得するなどブレークした。 2012年からオフにかけてはグレインキー放出後の課題であった先発投手としてジェレミー・ガスリー、アービン・サンタナ、ジェームズ・シールズを獲得。 2013年は、投手陣がリーグトップのチーム防御率(3.45)を記録するなど奮闘し、シーズン終盤までワイルドカード出場権を争い、勝率は10年ぶりに5割に達するなど飛躍のシーズンとなった。
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