戦後高度成長期以降の長期低迷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:47 UTC 版)
「新世界 (大阪)」の記事における「戦後高度成長期以降の長期低迷」の解説
1958年(昭和33年)に施行された売春防止法によって、飛田遊廓が(表向きは)廃業。それに伴い、歓楽街としての新世界の活気も衰え始め、界隈を歩くのはあいりん地区の労働者が大半を占めるようになる。1961年(昭和36年)に起こった釜ヶ崎暴動が追い打ちをかけ、隣接する新世界のイメージもその風評被害を受け悪化。次第に「怖い街」と認知されるようになっていった。 1960年代後半になると、1970年(昭和45年)の大阪万博開催に向け、鉄道や道路のインフラ整備を担う労働者が全国各地から大阪に集結。新世界も束の間の活況を呈するが、それがかえって「労働者の盛り場」の色を濃くする結果となった。 若者はキタやミナミ、および隣接の天王寺・阿倍野に流れ、家族連れの姿も見られず、1970年代から1990年代にかけて、新世界の地盤沈下は止まらなかった。通天閣の年間入場者数も1975年(昭和50年)には20万人を割り、過去最低を記録。映画館も閉館が相次ぎ、残った映画館も成人映画専門や名画座程度ととなった。さらに近隣に飛田新地があったこともあり、そこへの客引き目的などで至る所に街娼が立つなど風紀が乱れ、街全体の雰囲気も暗く、日中の通行人はまばらであった。
※この「戦後高度成長期以降の長期低迷」の解説は、「新世界 (大阪)」の解説の一部です。
「戦後高度成長期以降の長期低迷」を含む「新世界 (大阪)」の記事については、「新世界 (大阪)」の概要を参照ください。
- 戦後高度成長期以降の長期低迷のページへのリンク