1970年代から1990年代にかけて(衰退期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:33 UTC 版)
「和歌浦」の記事における「1970年代から1990年代にかけて(衰退期)」の解説
しかし、過剰気味になった観光開発は、後の和歌浦に大きな陰を落とすことになる。1965年ごろになると、新婚旅行の人気スポットは、宮崎など九州地方に西漸して、その影響を受けた和歌浦は宿泊客の減少が著しくなり、宿泊施設数はピークの半分に減少した。そこで新たに、従来の長期宿泊客向けの景勝地より、レジャーを中心とした近隣型の観光地への整備を始め、天然の砂嘴であった片男波は浸食が進んでいたこともあって、人工海岸に変えられるなどして、地形的に大きな変貌を遂げた。これにより、阪神地方などから海水浴客を確保することには成功したが、従来の景勝地としての情趣が奪われ、陳腐化が進み、魅力に欠けるものとなってしまった。 さらに、国内温泉ブームが衰退に拍車をかけた。和歌山県での宿泊客は温泉情緒を求めて白浜や勝浦などに出向いてしまい、それにより温泉資源のない和歌浦は一般客にも団体客にも敬遠され、大幅に宿泊客が減少した。そこに追い打ちをかけるように、1971年には旅館火災で16人もの死者を出してしまう(寿司由楼火災)が発生し、同年には和歌山駅や市内中心部からの交通手段として利用されていた南海和歌山軌道線が廃止。さらに著名な大型ホテルや著名旅館が経営に行き詰まって倒産するなど、暗い話題ばかりが和歌浦を包み込んでしまった。バブル期を迎えても、すでに観光地としての魅力を奪われていた和歌浦は開発、投資の対象にもならず、そのまま放置されていたほどである。さらにその間に長い間観光に貢献してきた和歌浦遊覧船も周航を廃止している。また、片男波や浜の宮の海水浴場も整備資金を捻出できなかったため、老朽化した施設が敬遠され、海水浴客が減少していた。それでも一部のホテルや旅館が廃業を免れたのは、地元住民にも会合などで気軽に利用してもらい、あるいは大阪から比較的近い地の利を活かし、会議やコンベンション、あるいは学校の部活動の合宿などにおける利用を呼びかけ、少しでも宿泊客を確保しようとした地道な営業活動の成果ともいえる。
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