アクロバチックダンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 20:16 UTC 版)
「コントーション」の記事における「アクロバチックダンス」の解説
昭和9年(1934年)12月に日本劇場(日劇)のこけら落しの主演と演出を行い、大変な人気を得た川畑文子は、日系アメリカ人三世のブロードウェイのスターダンサーで、足を頭より高く正面方向に蹴り上げる技(ハイキック)を得意としていた。川畑文子の日本での成功後、アメリカから多くの日系二世、三世のダンサーが来日したが、なかでもロサンゼルス出身の岡本八重子は妹の文子とともにコントーション的なダンスを得意として、川畑に迫る人気を得た。当時こうしたコントーション的ダンスは「アクロバチックダンス」と呼ばれ、戦前の日本では盛況であった。岡本は太平洋戦争後も複数の映画に出演したほか、岡本八重子舞踊研究所を設立して後進の育成も行い、若山昌子らを育てた。 アクロバチックダンスは他のダンスと同様に、キャバレーのショーなどでも多く演じられた。また、アクロバチックダンサーであったR・テンプルは、昭和27年(1952年)から当時「ストリップショーの殿堂」と呼ばれていた日劇ミュージックホール(日劇の小劇場を改称したもの)に出演するようになり人気を得て、昭和30年(1955年)にはラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)の番組『ミュージックホール』にも出演した。 アクロバチックダンスはキャバレーにおいて昭和50年(1975年)以降も演じられ、昭和53年(1978年)には若山昌子が自らキャバレーの経営を始めるなどしたが、ディスコの登場やバブルの崩壊によりキャバレーの経営事情は悪化、その数も減少し、若山の店も平成18年(2006年)に閉店することとなった。
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