宇治川電気
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/04 18:57 UTC 版)
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種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
![]() 大阪府大阪市北区梅ヶ枝町164 |
設立 | 1906年(明治39年)11月8日 |
業種 | 電気 |
事業内容 | 電気供給事業 |
代表者 |
会長 林安繁 社長 堀新 |
資本金 |
200,000,000円 (払込額 146,250,000円) |
発行済株式総数 |
旧株 185万株 新株 215万株 |
主要株主 |
|
特記事項:上記データは1942年(昭和17年)度[1]。 |
宇治川電気株式会社(うじがわでんき、英語: Ujigawa Electric Power Company, Limited.[注釈 1])はかつて日本に存在した電力会社。太平洋戦争以前の日本における大手「五大電力」(東邦電力、東京電燈、大同電力、宇治川電気、日本電力)の一つで、近畿地方を拠点とした。略称は宇治電(うじでん)。現存する大手電力会社の関西電力、及び私鉄の山陽電気鉄道を構成する前身となった企業の一つである。
沿革
日本では明治時代中期、日清戦争・日露戦争を背景に工業化が進行し、それに伴い電力需要も増えた。当時は需要地の都市部に火力発電所を設置して主に電気を賄っていたものの、それだけでは需要に追いつかない状況が続いたことから、1900年代以降、山間部に大型の水力発電所を建設し、ここから長距離の高圧送電線で都市部の需要地に送電するという新たな電力開発手法が勃興した。その前の1894年(明治27年)には高木文平の主唱で、宇治池尾村、志津川間に発電用水路開墾の出願が行われていたように[2]、近畿地方でもその傾向は強く、淀川上流の宇治川水系に水力発電所を設置して、都市部に供給する計画が持ち上がった。
大阪電灯社長の土居通夫は京都電灯に呼びかけて計画の実現に動いたが、宇治川の上流に位置する滋賀県地方でも同様の動きがあり、さらには煙草で財を成した岩谷松平も乗り出すなど三者競願の状態に陥った。
結局、大阪商船の中橋徳五郎の調整により、土居通夫を創立委員長に就き、1906年(明治39年)に京都で宇治川電気株式会社を創立した。社長に中橋徳五郎、土居通夫、岩谷松平、高木文平、浅見又蔵が取締役、田中市兵衛、大倉喜八郎、田中源太郎が監査役に就き、1913年(大正2年)に宇治水力発電所(宇治発電所、宇治市宇治山田)を完成させると京阪地域への電力供給を開始した[3]。1924年(大正13年)には志津川発電所(宇治市槇尾山)も運転を開始した。
なお、この頃電気事業の公営化の動きが大都市部で進み、大阪電灯はすべての営業地域を大阪市に買収されてしまい、残る設備も大同電力の手に落ちた。このため、宇治電としては比較的大口の需要家に対する電力供給に専念するとともに、大阪市と電力供給の協定を結んで何とか需要を確保した。京都でも京都市と電力供給を巡って競合状態となり、結局、京都市と京都電灯・宇治電の間で供給地域を分担することで決着を見た。
1942年(昭和17年)、国家総動員法に基づく配電統制令により1発電9配電体制に再編されることになり、解散した。
現存する建築物

1913年(大正2年)に竣工した宇治水力発電所(宇治発電所)は煉瓦造の近代建築である。関西電力宇治発電所として現在も使用されている。
1924年(大正13年)に竣工した志津川発電所は鉄骨煉瓦造の近代建築である。ニュージェック水理実験所として現在も使用されている。
その他
- 五大電力の中では兼営の電気鉄道事業に最も注力していた。世界大恐慌下で電力の大口需要先を確保すると共に収益源とすることを目的とし、1926年(大正15年)に近江鉄道を傘下に収め、翌1927年(昭和2年)には兵庫電気軌道(兵庫 - 明石間)と神戸姫路電気鉄道(明石 - 姫路間)を買収。明石で接続していた両社を一本化して、宇治電直営の電鉄部[4]として経営した。1933年(昭和8年)に山陽電気鉄道として分離するものの、その名残で独立後も山陽電気鉄道本線を「宇治電」と暫く呼び習わすことがあった。一方、近江鉄道は宇治電解散後に沿線出身の堤康次郎が買収し、西武グループ入りした。
- 大正時代になると、大阪商船と宇治電はさらなる電力需要の増大を見越して日本電力(日電)を設立。未開発だった北陸地方の水系を開発して電力供給を開始した。しかしその後の電力戦では、既に大同電力と供給契約を結んでいた宇治電に対し日電が独自に送電設備の新設と需要家開拓を行い、親会社・子会社の関係にも拘らず両者の間で激しい競争状態に陥った。
- かつて大阪・中之島にあったダイビルは、1923年(大正12年)に大阪商船・宇治電・日電の共同出資によって設立された大阪ビルヂングに端を発し、大阪商船と日電が本社を置き、大同電力の大阪支店も入居していた。また、大阪市北区西天満にあった宇治電ビルディング(1937年竣工)はかつて宇治電本社ビルとして使用され、その後1960年(昭和35年)まで関西配電⇒関西電力の本社として使用されていた。
- 2019年(令和元年)時点で、「宇治電」の名は高知市の研磨剤メーカーである宇治電化学工業株式会社の社名に残っている。同社は1939年(昭和14年)に宇治川電気ほかの出資で設立された企業である[5]。
脚注
注釈
出典
- ^ 『株式年鑑 昭和17年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 夕刊大阪新聞社 編『大阪商工大観』昭和4年版 P162.163,夕刊大阪新聞社,昭和4
- ^ 夕刊大阪新聞社 編『大阪商工大観』昭和4年版 P162.163,夕刊大阪新聞社,昭和4
- ^ 山陽電気鉄道(株)総務本部総務・広報グループ 「総説:山陽電気鉄道」 『鉄道ピクトリアル』711号(2001年12月臨時増刊号)、 電気車研究会、2001年、p10
- ^ 沿革 宇治電化学工業株式会社、2015年10月11日閲覧
関連項目
宇治川電気
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大同電力最大の供給先は宇治川電気であった。同社との関係は、大阪送電線完成直後の1924年2月に電力供給契約を締結したことに始まる。この宇治川電気は京都府内での淀川(宇治川)開発を目的に1906年に設立された新興の電力会社で、1913年の開業以来、大阪市内での一般電力供給と大阪電灯など他の事業者への電力供給を事業の柱としていた。加えて1920年代に入ると合併路線を採り、滋賀・奈良・和歌山3県の電力会社を吸収し兵庫県神戸市の電力供給区域も獲得している。 宇治川電気との電力供給契約締結に先立つ1922年9月、大同電力は一般供給の拡大を目的に、大阪府の中部から南部にかけての地域を供給区域とする一般電力供給権を獲得した(#一般供給の推移参照)。このうち大阪市・堺市とその周辺の郡部は、従来から宇治川電気の電力供給区域であり、両社の供給区域が重なることとなった。これら重複供給権の設定を宇治川電気側は事業経営上の脅威になると捉え、競合回避と引き換えに大同から大量の電力供給を受ける道を選択した。 1924年に締結された供給契約は、以下の内容からなる、10年を期限とする長期契約であった。 宇治川電気は大同電力から、初年は2万kWの電力を受電する。以降毎年2万kW、4年目からは1万5,000kWを増加していき、最終的には年間15万kWを受電する。 上記定時電力の他にも、冬季には不定時電力を2万kW、4年目以降は1万5,000kW追加受電する。 料金は1kWhあたり定時分は2銭4厘5毛(実際には2銭3厘3毛に減額)、不定時分は2銭1厘5毛とする。 責任負荷率は60%。 この電力供給契約に附帯して、京阪神地方において大同電力は一部事業者向けを除いて供給を自制する、という市場分割協定が両社の間で交わされた。供給は1924年4月に開始。実際の供給は契約高より若干縮小されて1万9,100kWの供給で始まり、3年目までこれを毎年増量、4年目の1927年(昭和2年)からは1万5,000kWの増量となったものの翌年から1割減の1万3,500kWに抑えられたため、1929年時点での供給電力は9万9,300kWである。 なお大同電力から宇治川電気への電力供給開始の余波で、宇治川電気と日本電力の間で深刻な対立が生じた。日本電力は宇治川電気にとって姉妹会社であり6万kWの受電契約を結んでいたが、大同電力に割り込まれ日本電力からの受電維持が困難となったのが対立の原因である。宇治川電気という供給先を失った日本電力は名古屋進出を図り、東邦電力が妥協を余儀なくされたことから、大同社長の福澤桃介は後年、大阪進出は明らかに失敗で、大同・東邦が結びついていた方が事業としては発展しただろう、と回想している。
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