名古屋進出(伊勢電気鉄道合併・関西急行電鉄設立)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:36 UTC 版)
「大阪電気軌道」の記事における「名古屋進出(伊勢電気鉄道合併・関西急行電鉄設立)」の解説
1936年(昭和11年)9月、参急は、三重県の有力私鉄ながら過剰投資で経営破綻に陥っていた伊勢電気鉄道(通称伊勢電。桑名駅 - 大神宮前駅(伊勢神宮の外宮前)間ほかを運営。津 - 伊勢間で参急と競合)を合併する。 伊勢電は、参急とほぼ同時期に伊勢への進出を果たし、将来名古屋へ延伸するための免許を既に有していた。また参急は、伊勢へ進出する以前に、中川 - 桑名間の免許を収得するなど、参急自身も既に名古屋進出を計画していた。参急本線全通の翌年に津への支線が開通したことも、その意欲の表れといえた。 しかし、当時国鉄線の運営と私鉄の監督を行っていた鉄道省は、「このままでは省の運営する関西本線・参宮線を合わせて3つ巴の競争になる恐れがあり、人口がさほど多くない名古屋 - 四日市 - 伊勢間では共倒れになる恐れがある」と警告していた。参急もそれは理解していて、伊勢進出の前に「参急は伊勢へ、伊勢電は名古屋への進出を優先し、提携輸送を行う方が双方のためである」という内容の交渉を伊勢電に行った事があった。これには、既に京阪傘下の新京阪鉄道と名古屋急行電鉄によって大阪 - 名古屋間の鉄道敷設計画が進んでいたため、先に大阪 - 名古屋間運転の実績をつくっておいて対抗したい大軌・参急の意向もあった。 しかし、大阪系資本の参急の進出に、地元企業の伊勢電は対抗意識があり、交渉には応じず、逆に参急と並行路線となる伊勢への路線建設を優先した。名古屋という大都市へ直結するのを後回しにしたために集客力を得られなかったことと、参急への対抗心で伊勢進出を強行したことが、結果として伊勢電自身の破綻を招くことになった。
※この「名古屋進出(伊勢電気鉄道合併・関西急行電鉄設立)」の解説は、「大阪電気軌道」の解説の一部です。
「名古屋進出(伊勢電気鉄道合併・関西急行電鉄設立)」を含む「大阪電気軌道」の記事については、「大阪電気軌道」の概要を参照ください。
名古屋進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 00:05 UTC 版)
三河電力では瀬戸町に続き、余勢を駆って名古屋市内へと進出する計画を立て、1902年2月に市内と郊外の愛知郡千種町を供給区域とする旨を逓信省へ出願し、3月その許可を得た。ただし、千種町では電灯・電力双方の供給を許可されたが、名古屋市内ではすでに名古屋電灯が開業しているため電力供給のみの許可であった。名古屋進出資金を得るため翌1903年(明治36年)3月に倍額増資を実施して資本金を10万円とする。そして同年12月23日より、名古屋監獄署を端緒として千種町内での供給を開始した。 1904年(明治37年)1月9日、三河電力は千種町に続いて名古屋市内への供給を開始した。市内への供給は、動力用電力に限らず、本来認可されていない電灯供給も電力供給名義で実施したのが特徴である。三河電力の電灯供給は、会社が電灯を取り付けるのではなく、各需要家が電力供給を受けてこれを任意に電灯で用いる、という形をとったもの。電力供給の場合、当時の規則では電力量計(メーター)の取り付けが必須で、これが1器35円以上と高価なため電力供給名義による電灯供給は本来現実的でないはずだが、三河電力では自社でブリキ製の簡易電力量計を1器80銭で製造して各戸に取り付けたのであった。 名古屋進出後の1905年(明治38年)10月27日、社名を三河電力から東海電気株式会社へと改めた。半年後の1906年(明治39年)3月2日には本社を岡崎の岡崎電灯社内から名古屋市葵町31番地4(新栄町交差点北東)へと移転する。名古屋移転を機に東海電気の攻勢は強化され、市内東部、千種町から広小路通にあった日清戦争第一軍戦死者記念碑までの間に名古屋電灯の配電線が未架設の地域があれば積極的に進出し、坂上町・大曽根方面にも配電線を伸ばした。さらに第3師団の市内駐屯部隊への供給を一部名古屋電灯から奪取し、名古屋電灯が点灯する戦争記念碑の電飾も同社に代わって供給するようになった。 名古屋電灯と東海電気の競争は、先にあった名古屋電灯と愛知電灯(1894 - 1896年)の競争よりも激しいものであった。東海電気の攻勢の要因は安い供給料金にあった。火力発電に依存する名古屋電灯は、東海電気の進出に伴い値下げした1906年2月改定時点でも10燭灯月額85銭などという電灯料金であったが、水力発電による東海電気は10燭灯月額65銭などという供給料金を採用していた。需要家の流出を防ぐべく名古屋電灯は東海電気進出地域では電灯料金を同社と同一額まで下げたため、重複地域とそれ以外の地域は道路の向い側でも料金が異なるといういびつな状況が生まれた。 名古屋電灯側では、東海電気に対抗するための料金値下げや日露戦争期の灯油価格高騰で需要が増加したが、供給力がそれに追従せず1906年12月に水主町発電所の増設が完成するまで電灯の新規申し込みを謝絶せざるを得ない状況にあった。このことが東海電気に名古屋進出を許した一因でもあった。一方東海電気では、1905年3月に2度目の増資で資本金を25万円とし、矢作川支流の巴川にて出力750キロワットの巴川発電所を新設する計画を立てて1906年1月着工した。
※この「名古屋進出」の解説は、「東海電気」の解説の一部です。
「名古屋進出」を含む「東海電気」の記事については、「東海電気」の概要を参照ください。
- 名古屋進出のページへのリンク