東海電気の合併
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「東海電気」も参照 愛知電灯に続く競合会社として出現したのが東海電気株式会社である。同社は岡崎電灯の経営者が中心となって三河電力の名で1901年3月に設立。名古屋進出に伴って1905年(明治38年)10月に東海電気へ改称し、翌1906年(明治39年)3月からは本社を名古屋市内に置いていた。 この東海電気は矢作川支流の田代川に出力200kWの小原発電所を建設し、はじめ瀬戸町(現・瀬戸市)への供給を行っていた。次いで名古屋市の東に位置する千種町への供給を1903年(明治36年)12月に開始し、翌1904年1月より名古屋市内での供給に乗り出した。名古屋進出にあたっての東海電気の武器は水力発電による低料金であり、大口需要家である第三師団市内駐屯部隊の一部を名古屋電灯から奪うなど勢力を伸ばした。このため名古屋電灯でも対抗して東海電気進出地域の料金を引き下げたものの、両社の競合する地域とそうでない地域では道を隔てるだけで料金が異なるといういびつな状況が生まれた。また日露戦争に伴う灯油価格の上昇と電灯料金の引き下げに伴って石油ランプから電灯への転換が進んだため、名古屋電灯は新規申し込みの受付を一時中断するほどの深刻な供給力不足に陥った。こうした名古屋電灯の供給力不足も東海電気の進出を招く要因であった。 名古屋市内での需要家争奪戦は、配電線架設などで技術的な危険を生じさせ、経営的にも両社を圧迫したことから、愛知電灯の場合と同様両社の間には次第に合併の機運が醸成された。名古屋電灯よりも先に後述の名古屋電力が合併に動くが、名古屋電灯はより有利な条件を示して1906年12月に東海電気と合併契約を締結した。その合併条件は、存続会社の名古屋電灯の資本金100万円に東海電気の資本金25万円を加え新資本金を125万円とし、東海電気株主には新株とともに別途15万円を交付するというものであった。翌1907年(明治40年)3月25日の株主総会にて合併決議ののち、同年6月1日に合併が成立した。合併に伴い名古屋電灯は小原発電所を引き継ぐとともに、工事中の巴川発電所も継承し1908年(明治41年)2月に完成させた。
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