日本電力からの受電
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1919年、関西の宇治川電気を中心とする大阪商船系列の電源開発会社として日本電力が設立された。同社は1923年12月に富山県から岐阜県を経て大阪府へと至る300km超の154kV送電線の「大阪送電幹線」を完成させ、翌1924年3月には岐阜県の飛騨川に瀬戸発電所(出力27,000 kW)を建設するなど、岐阜県北部や富山県において積極的な電源開発を展開していく。関西地方以外に岐阜県内でも電力供給権を取得していたのが同社の特徴で、大阪送電幹線完成後、岐阜方面への送電のために同線から分岐する岐阜支線の建設にも着手した。 さらに日本電力は、1923年8月、名古屋市内への送電線建設許可と名古屋市周辺での電力供給権を獲得した。同社が設立以来許可を得た供給区域は岐阜県では岐阜市・稲葉郡・安八郡、愛知県では名古屋市・愛知郡・西春日井郡、三重県では四日市市・三重郡・桑名郡であり、1構内あたり50馬力ないし100馬力以上の電力供給に限られるという制限付き電力供給区域ではあったが、東邦電力の既存電灯・電力供給区域と重複するものであった。同年9月、日本電力は名古屋営業所を設置して供給の募集を開始する。すると東邦電力からの乗り換えを含めて短期間に大口需要家を多数獲得し、契約高は合計1万kWに及んだ。短期間での浸透は、旧名古屋電灯時代に福澤ら「電政派」の排撃を主張していた財界人らが日本電力の後援に回ったことが一因という。送電線の建設を待って翌1924年10月から順次名古屋方面にて供給を開始した。 こうした日本電力の進出を前に東邦電力では競争を回避する方向に動き、自社電源開発計画が進行中で新規の受電を要する状況ではなかったのにもかかわらず、1924年3月30日、日本電力との間に大規模な電力供給契約を締結した。1924年10月よりまず5,000kWで受電を開始し、毎年累増して10年目の1933年10月以降は100,000kWを受電するという大規模受電契約で、料金は1kWhにつき2銭1厘とされた。1924年10月、日本電力によって関西送電線岐阜支線と、支線岐阜変電所から名古屋市内の熱田変電所に至る77kV送電線が完成。16日より東邦電力は日本電力熱田変電所からの受電を開始した。受電は初め5,000kWで、翌年3月から10,000kWへと増加し、以後毎年10月に10,000kWずつ増加していった。日本電力からの大量受電に伴い、以後しばらく東邦電力は毎年着実に増加する受電電力の販売に追われることとなる。 東邦電力では日本電力からの受電を名古屋市内への配電にあてたほか、1925年(大正14年)10月からは日本電力岐阜変電所からの受電も開始して岐阜・大垣方面への電源に加えている。受電地点は1926年10月からは上記の東邦電力岩塚変電所も追加。さらに1928年12月、供給増加に伴い日本電力側で154kV送電線の終端として名古屋近郊の岩倉に名古屋変電所が新設されると、東邦電力では同時に同変電所から一宮近郊の起まで77kV送電線を架設した。
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