電力供給増加と大口需要開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:25 UTC 版)
「高岡電灯」の記事における「電力供給増加と大口需要開拓」の解説
1930年代の自社水力開発の結果、1937年末時点で水力発電所8か所・総出力1万1,252.5キロワットを持つに至る。加えて関係会社の手取川水力電気が出力1,470キロワットの白山発電所を、同じく関係会社の石川電気が出力1,600キロワットの鶴来発電所を、それぞれ石川県を流れる手取川にて1937年に建設している。前者の発生電力は金沢電気軌道、後者の発生電力は金沢市営電気へとそれぞれ供給された。発電力増強の一方、受電についても拡大しており、1937年末時点では日本電力・日本海電気・立山水力電気・金沢市営電気の4事業者から計1万9,390キロワット(融通電力を計算に含まず)を受電していた。なお立山水力電気以外の3事業者は高岡電灯の受電元であるとともに供給先でもあるという関係であった。 供給についてみると、1930年代は石川県内の供給区域内における電灯需要家数の増加が目立った。反面、富山県内の需要家数はほとんど伸びなかったが、需要家あたりの電灯数は富山県内の供給区域の方が伸長している。1938年(昭和13年)11月末時点での電灯取付数は30万8,714灯であった。電力供給については、1938年11月末には大口電力2万1,680キロワット・小口電力7,245キロワットとなっていた。1939年末時点のものではあるが、大口需要家(供給電力1,000キロワット以上を挙げた)は以下のものがあった。 日本電気冶金大門工場:3,400キロワット供給(現・新日本電工北陸工場) 日本曹達高岡工場:3,000キロワット供給 日本鋼管電気製鉄所:1,650キロワット供給(現・JFEマテリアル) 呉羽紡績井波工場:1,200キロワット供給(現・東洋紡井波工場) 日清紡績高岡工場:1,000キロワット供給 小松製作所:5,100キロワット供給 上記のうち日本電気冶金・呉羽紡績・日本曹達は1930年代に現れた大口需要にあたる。大口需要を中心に電力供給が大きく伸長した結果、1934年下期に初めて電灯料収入よりも電力料収入が多くなり、1938年下期には電力料収入が全収入の6割近くを占めるまでになった。 大口需要家のうち、1937年に供給を始めた日本曹達高岡工場に関し、その建設に際して高岡電灯は誘致活動を展開していた。当時の高岡電灯支配人兼営業部長は西泰蔵であったが、日本海電気に合併された中越水電に在籍していたこともあり、中越水電時代に日本曹達の新工場を富山市へ誘致していた関係から日本曹達社長中野友禮と友人であった。西は移籍後に高岡電灯の余剰電力受け入れを中野へ打診したところ、日本曹達としても新しい電解ソーダ工場の建設予定地を探していたため、西の要請を受け入れるとともに土地の斡旋を依頼した。その結果、日本曹達は当時工場誘致で積極的であった高岡市より補助金を得て向野地区へと進出、高岡工場を建設したのである。まず1934年9月より電解工場が操業を開始し、1937年からはアルミニウム製錬工場の操業も始まった。なおこのように操業を開始した日本曹達高岡工場だが、日本電力からの受電の方が2万1,500キロワット(1939年末時点)と7倍も多い。 電気事業とは別に、先述の高岡瓦斯について、1939年(昭和14年)1月に当時の大株主であった姫路の山陽瓦斯より株式を買収し、傘下に収めた。常務の吉田作助が高岡瓦斯社長、社長の菅野伝右衛門が同社取締役となるなど高岡電灯役員が経営陣に入り、高岡電灯の解散後もこの体制がそのまま維持された。
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