対立の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:15 UTC 版)
「ヴェルブジュドの戦い」の記事における「対立の原因」の解説
皇帝コンスタンティン・ティフ(在位1257年 - 1277年)の長く不安定な治世の間、ブルガリアは東ローマから封土として認められていたスコピエを含む北マケドニアの領土を喪失していた。1280年代、ブルガリアと東ローマが内外で深刻な問題に直面している間、セルビアは南に勢力を伸ばし、北マケドニアに進出する。 1320年から1328年にかけて、東ローマ帝国では皇帝アンドロニコス2世と共同統治者アンドロニコス3世の間で内戦が起きており、セルビア王ステファン・ウロシュ3世デチャンスキはアンドロニコス2世を支持する見返りとして、いくつかのマケドニア内の要塞を獲得する。だが、内戦に勝利したアンドロニコス3世がアンドロニコス2世を退位させるとセルビアと東ローマの関係は悪化し、宣戦布告が無いまま戦争に突入したとも言える情勢になる。この状況下、セルビアはプロセク(英語版)、プリレプといった北マケドニアの重要な都市を占領し、1329年にオフリドを包囲した。 一方、ブルガリアの復興を望む皇帝ミハイル3世シシュマンは東ローマの内戦に対して、状況に応じて支持者を変え、1327年には東ローマの首都コンスタンティノープルを占拠する企てを立てた。また外交の一環として、ミハイル3世は内戦中の1324年にウロシュ3世の姉妹である妻のアンナ・ネダを離縁して追放し、アンドロニコス3世の姉妹であるテオドラと再婚していた。 セルビアの急速な拡大に不安を覚えたブルガリアと東ローマは1327年5月13日に和約を締結するが、そこには明らかに反セルビアの意図が込められていた。1329年の君主間の会談の後、両国は共同でセルビアに対しての軍事行動を実施することを決定し、ミハイル3世は戦争の準備に取り掛かる。ミハイル3世は、かつてセルビアに占領された西ブルガリアの奪回を望み、セルビアの影響力の完全な排除とブルガリアと東ローマ間での解放地の分割を計画していた。
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