対立と合社、無格社の認定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 14:30 UTC 版)
「蘆別神社」の記事における「対立と合社、無格社の認定」の解説
朝山団体と第二沢口団体との間には入植当初から軋轢があった。というのも、もともと下芦別には富山から根井清作が率いる根井団体と早川丹左衛門が率いる早川団体が入植する予定だったが、そこに割り込んだのが第二沢口団体だった。戸数では第二沢口団体の方が多く、根井団体と早川団体はこれに対抗するために急遽合同して朝山団体を作ったのだった。 明治30年(1897年)には沢口団体と根井団体の対立は修復不可能になり、根井団体は袂を分かって新たな神社を建立することとした。根井団体では37号線市街の北端(現在の芦別神社の位置)に「天照大神宮」を創建した。この場所が選ばれたのは将来の鉄道敷設と駅開設を見越してのことで、当時はこの神社の裏手が新駅設置の第一候補だった。神体は、団体の止意伊三太郎が日清戦争に従軍の際に下賜され、転戦して勲功をあげる間、欠かさず所持していた伊勢・天照皇大神宮の掛軸とした。この結果、下芦別に2つの神社を有することになった。 明治32年(1899年)、芦別郵便局の開局に際して、下芦別地区と南方の上芦別地区で誘致合戦となる。空知川と芦別川の合流地点で水運に恵まれ、大資本の入っていた芦別太(=上芦別地区)が当初有力視されていたが、下芦別の巧みな都市計画が評価され、郵便局は下芦別に建設が決まった。これにより下芦別が芦別の中心地区となる。 明治33年(1900年)に空知川の左右両岸が芦別村として歌志内村から分村して成立し、下芦別に戸長役場ができた。当時の人口は1783人。この年に春祭は4月25日と改められた。芦別村の中心地には沢口団体の神明社と根井団体の天照大神宮の2社が並び立つ状況だったが、神道を統制する国の方針は、小神社の乱立はかえって神社の尊厳を損なうものとして廃社や合社を押し進めるものだった。北海道庁では、開拓を進める観点からこのような小神社の乱立を見て見ぬふりをしており、社格制度にあがってこない「無願社」として看過していた。 こうした状況はしばらく続いたが、明治38年(1905年)6月、日露戦争・奉天会戦(同年3月)の後、上芦別町から出征して戦死した軍馬を慰霊するために馬頭観世音の石仏を天照大神宮に建立するという事があった。これはすぐに神仏分離の観点から移設されてしまったが、正式な認可を受けていない小神社が並立していることは村民にとっても悩みの一つとなっていた。 この年の秋に日露戦争が終結すると共に、翌春に芦別村が二級町村に指定されることになった。これを受けて、かねてから懸案となっていた両神社の合社を図るため、9月25日に部落組合長の居嶋利吉が新社殿建築と合社を提案する部落総会を開き、賛成意見で一致した。これにより、建設委員を選出して翌明治39年(1906年)3月に社殿の建築工事に着工、9月に落成した。9月10日には芦別神社として無格社に認定された。この年は通常の秋祭日を変更して、9月22日に昇格祝いと新社殿の遷宮式を兼ねて盛大に秋祭が挙行した。餅まき、角力、芝居、獅子神楽、手踊などが催されて「開村以来未曾有の人出」となった。
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