対立と退去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 10:18 UTC 版)
「グナエウス・マルキウス・コリオラヌス」の記事における「対立と退去」の解説
ところでローマでは聖山事件の際にプレブスが種まきなどを怠ったために食糧不足に悩まされる事となったが、護民官はパトリキに責任転嫁して兵役の拒否を呼びかけた。それを見たコリオラヌスは手勢を率いてアンティウムに侵入して大いに略奪し、見せつけるかのように大量の戦利品と共に帰国して人々を悔しがらせたという。その後彼は執政官選挙に立候補した。当初その武勇から人々は彼に心が傾いていたが、投票当日になって元老院議員たちと共に乗り込んで来るのを見て、彼がパトリキびいきである事を思い出し不安に駆られ、結局は落選させた。そのことに元老院議員たちも憤慨したが、彼自身もまた誇りを甚く傷つけられ、プレブスに屈辱を受けたと感じたという。 リウィウスによれば、紀元前492年と翌491年は穀物を輸入することで辛うじてしのいでいた。ウォルスキ族の間で疫病が流行り、彼らが戦意を失っていた事もローマには幸いした。元老院ではこの穀物をどのように配分するかが話し合われたが、コリオラヌスはとりわけ強硬派で、護民官特権の剥奪などを要求する激烈な論陣を張った。プレブスも黙ってはおらず、護民官のルキウス・シキニウス・ウェッルトゥスは彼を告発した。パトリキもあらゆる手を尽くして仲裁を試みたが、リウィウスはコリオラヌスが裁判に出頭せずに有罪とされ亡命したとし、またプルタルコス(とディオニュシオス)はアンティウムの略奪品を国庫に入れなかった事などを指摘され、裁判の結果国外追放されたとしている。
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