聖山事件とは? わかりやすく解説

聖山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:39 UTC 版)

アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス (紀元前503年の執政官)」の記事における「聖山事件」の解説

リウィウス著作500年も後に書かれたものではあるが、メネニウスは紀元前494年第一次プレブス平民)の分離運動モンテ・サクロ立て篭もり平民だけで国を作る宣言した)の際に、パトリキ貴族)の代表に選ばれて、プレブスたちのもとに足を運び有名な弁解交えた説得行なった。 即ち、社会人体喩えそれぞれの部分全体利益のために担うべき役割がある。体の他の部分は、腹が「ただ食べるだけで何もしない」と考え、体は腹に食物を運ぶのを止めることにしたが、すぐに体の他の部分飢餓態となり機能しなくなってしまった。そこで初めて腹はただ養われているだけでなく、血を全身送り出す重要な働きをしており、それ無しでは何も出来ない気付いた。 この寓話では、パトリキが腹であり、プレブスは体の他の部分例えられている。その後パトリキプレブス和解し護民官制度作られた。 聖パウロもこの寓話知っていたようで(リウィウス通じてかは分からないが)、彼のコリントの信徒への手紙一の中の説話でこの話を使っている。しかし、このたとえ話リウィウス時代でも新しいものではなくクセノポン紀元前427年?-紀元前355年?)の『ソクラテスの思い出』(2.iii.18)やキケロの『義務について』(III.v.22)にも似た話がある。

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聖山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 10:18 UTC 版)

グナエウス・マルキウス・コリオラヌス」の記事における「聖山事件」の解説

紀元前494年ローマでプレブス (平民)が高利貸苦しんでおり、パトリキとの対立頂点達した暴動寸前となり兵役ボイコット訴えプレブスに対して周辺サビニ族ウォルスキ族らの攻撃続きパトリキとりあえ妥協するものの、脅威去れば元老院での強硬派息を吹き返す繰り返しで、独裁官ですら仲裁することが出来ず、ついにプレブスローマ退去し聖山立て籠もって全てボイコットし最終的に護民官設立勝ち取った。コリオラヌスはこの妥協苦々しく見ていた一人であったという。

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聖山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:36 UTC 版)

アッピウス・クラウディウス・サビヌス・インレギッレンシス」の記事における「聖山事件」の解説

紀元前494年アウェンティヌスの丘とエスクイリヌスの丘でのプレブス会合内容が、元老院届いた元老院はインレギッレンシスのような激しい対応を求め同年執政官アウルス・ウェルギニウス・トリコストゥス・カエリオモンタヌスとティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス)に対して、軍を編成して騒乱鎮圧しさらにアエクイ、ウォルスキ、サビニへの脅威備えるよう命令した。しかし、プレブス圧迫している債務救済と自由が認められない限り召集応じるものはいないであろう。両執政官とものそのような命令実行できるはずもなく辞任しようとしたが、執政官この方策を実施する場合にはその側に立つよう要求した結局元老院この方策をあきらめ代わりに3つの代案検討した執政官カエリオモンタヌスは、全面的な債務取り消しには反対であったが、前年執政官ストルクトゥスの約束利用して、ウォルスキ、アウルンキおよびサビニと戦った兵士に関してはこれを認めるとした。執政官二度ローマ最初独裁官務めたティトゥス・ラルキウスは、一部債務者にのみ取り消し認めると、その対象から外れたものが不満を抱くとし、全面的な債務解消のみが解決策であるとした。インレギッレンシスはいかなる救済策にも反対した。真の原因市民が法を無視し、また訴訟権利与えられているため、執政官正当な権限行使できないためであると考えたためであった多く元老院議員にとっても、インレギッレンシスの意見過度に厳しいものと思われたが、結局は彼の意見優位となり、彼自身独裁官任命される寸前となった。しかし最終的に元老院マニウス・ウァレリウス・マクシムス独裁官指名した。マニウスはローマ市民訴訟権利認めたウァレリウス法制定したプブリウス・ウァレリウス・プブリコラ兄弟であったマクシムス信頼勝ち得ていた人物であり、前年にストルクトゥスが約束した債務解消身体の自由再度訴え、ために10軍団の編成が可能となったマクシムスと両執政官はこの軍を率いてアエクイ、ウォルスキ、サビニに勝利した勝利を得て帰還したマクシムス凱旋式実施し、また元老院約束履行促した。しかし元老院はこれを拒否マクシムス辞任した。 そのすぐ後、元老院は兵が執政官命令服することを期待して、アエクイ軍に対処するために軍に出撃するように命令した。しかし、兵士反乱起こしモンテ・サクロ聖山)に立て篭もった。ローマは全く無防備となり、残った市民お互い恐れた紀元前503年執政官アグリッパ・メネニウス・ラナトゥスは元老院プレブスとの和解促しマクシムス支持したマクシムスはインレギッレンシスを「国民の敵で、ローマ破壊導いた寡頭政王者」と非難していた。一方インレギッレンシスはマクシムスとラナトゥスを弱腰非難しプレブス野獣表現してあらゆる交渉に対して反対した。 激し議論の後、元老院10人の使節派遣してプレブス交渉することとした。使節にはマクシムスとラナトゥス、前年執政官ストルクトゥス、前独裁官ラルキウス等が含まれていた。この紛争元老院債務取り消し最終的に合意 - インレギッレンシスは再び反対したが - したことにより解決したまた、元老院執政官に対して拒否権持ち不可侵特権を持つ護民官設立された。これによち兵士達ローマに戻ることに同意し「聖山事件」は終結した。 しかし「パトリキプレブス対立」はその後2世紀続くことになる。プレブスはより大きな権利と平等を求めパトリキ国家運営自身の手維持するために戦ったその後長年にわたり、インレギッレンシスとその子孫クラウディウス氏族は、この種のあらゆる改革に対して継続的に反対続けた

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