聖山事件
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「アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス (紀元前503年の執政官)」の記事における「聖山事件」の解説
リウィウスの著作は500年も後に書かれたものではあるが、メネニウスは紀元前494年の第一次プレブス(平民)の分離運動(モンテ・サクロに立て篭もり、平民だけで国を作ると宣言した)の際に、パトリキ(貴族)の代表に選ばれて、プレブスたちのもとに足を運び、有名な弁解を交えた説得を行なった。 即ち、社会を人体に喩え、それぞれの部分が全体の利益のために担うべき役割がある。体の他の部分は、腹が「ただ食べるだけで何もしない」と考え、体は腹に食物を運ぶのを止めることにしたが、すぐに体の他の部分は飢餓状態となり機能しなくなってしまった。そこで初めて腹はただ養われているだけでなく、血を全身に送り出す重要な働きをしており、それ無しでは何も出来ないと気付いた。 この寓話では、パトリキが腹であり、プレブスは体の他の部分に例えられている。その後、パトリキとプレブスは和解し、護民官の制度が作られた。 聖パウロもこの寓話を知っていたようで(リウィウスを通じてかは分からないが)、彼のコリントの信徒への手紙一の中の説話でこの話を使っている。しかし、このたとえ話はリウィウスの時代でも新しいものではなく、クセノポン(紀元前427年?-紀元前355年?)の『ソクラテスの思い出』(2.iii.18)やキケロの『義務について』(III.v.22)にも似た話がある。
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聖山事件
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「グナエウス・マルキウス・コリオラヌス」の記事における「聖山事件」の解説
紀元前494年、ローマではプレブス (平民)が高利貸に苦しんでおり、パトリキとの対立が頂点に達した。暴動寸前となり兵役のボイコットに訴えるプレブスに対して、周辺のサビニ族やウォルスキ族らの攻撃が続き、パトリキはとりあえず妥協するものの、脅威が去れば元老院での強硬派が息を吹き返すの繰り返しで、独裁官ですら仲裁することが出来ず、ついにプレブスはローマを退去し、聖山に立て籠もって全てをボイコットし、最終的には護民官の設立を勝ち取った。コリオラヌスはこの妥協を苦々しく見ていた一人であったという。
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聖山事件
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「アッピウス・クラウディウス・サビヌス・インレギッレンシス」の記事における「聖山事件」の解説
翌紀元前494年、アウェンティヌスの丘とエスクイリヌスの丘でのプレブスの会合の内容が、元老院に届いた。元老院はインレギッレンシスのような激しい対応を求め、同年の執政官(アウルス・ウェルギニウス・トリコストゥス・カエリオモンタヌスとティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス)に対して、軍を編成して騒乱を鎮圧しさらにアエクイ、ウォルスキ、サビニへの脅威に備えるよう命令した。しかし、プレブスを圧迫している債務の救済と自由が認められない限り、召集に応じるものはいないであろう。両執政官とものそのような命令を実行できるはずもなく辞任しようとしたが、執政官がこの方策を実施する場合にはその側に立つよう要求した。結局元老院はこの方策をあきらめ、代わりに3つの代案を検討した。執政官カエリオモンタヌスは、全面的な債務取り消しには反対であったが、前年の執政官ストルクトゥスの約束を利用して、ウォルスキ、アウルンキおよびサビニと戦った兵士に関してはこれを認めるとした。執政官を二度、ローマ最初の独裁官も務めたティトゥス・ラルキウスは、一部の債務者にのみ取り消しを認めると、その対象から外れたものが不満を抱くとし、全面的な債務解消のみが解決策であるとした。インレギッレンシスはいかなる救済策にも反対した。真の原因は市民が法を無視し、また訴訟権利が与えられているため、執政官が正当な権限を行使できないためであると考えたためであった。 多くの元老院議員にとっても、インレギッレンシスの意見は過度に厳しいものと思われたが、結局は彼の意見が優位となり、彼自身独裁官に任命される寸前となった。しかし最終的に元老院はマニウス・ウァレリウス・マクシムスを独裁官に指名した。マニウスはローマ市民の訴訟権利を認めたウァレリウス法を制定したプブリウス・ウァレリウス・プブリコラの兄弟であった。マクシムスは信頼を勝ち得ていた人物であり、前年にストルクトゥスが約束した債務の解消と身体の自由を再度訴え、ために10個軍団の編成が可能となった。マクシムスと両執政官はこの軍を率いてアエクイ、ウォルスキ、サビニに勝利した。勝利を得て帰還したマクシムスは凱旋式を実施し、また元老院に約束の履行を促した。しかし元老院はこれを拒否、マクシムスは辞任した。 そのすぐ後、元老院は兵が執政官の命令に服することを期待して、アエクイ軍に対処するために軍に出撃するように命令した。しかし、兵士は反乱を起こし、モンテ・サクロ(聖山)に立て篭もった。ローマは全く無防備となり、残った市民はお互いを恐れた。紀元前503年の執政官アグリッパ・メネニウス・ラナトゥスは元老院にプレブスとの和解を促し、マクシムスを支持した。マクシムスはインレギッレンシスを「国民の敵で、ローマを破壊に導いた寡頭政の王者」と非難していた。一方インレギッレンシスはマクシムスとラナトゥスを弱腰と非難し、プレブスを野獣と表現してあらゆる交渉に対して反対した。 激しい議論の後、元老院は10人の使節を派遣してプレブスと交渉することとした。使節にはマクシムスとラナトゥス、前年の執政官ストルクトゥス、前独裁官ラルキウス等が含まれていた。この紛争は元老院が債務取り消しに最終的に合意 - インレギッレンシスは再び反対したが - したことにより解決した。また、元老院と執政官に対して拒否権を持ち、不可侵特権を持つ護民官が設立された。これによち兵士達はローマに戻ることに同意し「聖山事件」は終結した。 しかし「パトリキとプレブスの対立」はその後2世紀続くことになる。プレブスはより大きな権利と平等を求め、パトリキは国家運営を自身の手に維持するために戦った。その後長年にわたり、インレギッレンシスとその子孫のクラウディウス氏族は、この種のあらゆる改革に対して継続的に反対し続けた。
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