紀元前494年の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 15:37 UTC 版)
「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「紀元前494年の戦闘」の解説
紀元前494年になっても、ローマでのパトリキとプレブスの緊張は続き、やがては聖山事件(en)につながる。この不和を見たウォルスキ、サビニ、アエクイは、ローマに対して同時に武器を取った。この危機の対するために、ローマは民衆に人気の高いマニウス・ウァレリウス・マクシムスを独裁官(ディクタトル)に選んだ。結果、これまでで最大と言われる10個軍団が編成された。この内3個軍団が執政官アウルス・ウェルギニウス・トリコストゥス・カエリオモンタヌスの指揮の下、ウォルスキと戦うこととなった。 カエリオモンタヌスはウォルスキ軍に戦闘を強要させるために、ローマ軍をウォルスキ領まで進軍させた。両軍は近接した位置に野営地を設営し、続いて中間の平原で共に戦列を敷いた。ウォルスキ軍の兵力はローマ軍を上回っており、ローマ軍の戦列に対して突撃した。カエリオモンタヌスはローマ兵に持ち場を死守するよう命令し、前進することも敵の喊声に叫び返すことも許さなかった。ローマ軍は槍を地面に突き刺し、剣を抜き放ってウォルスキ兵に対した。突撃ですでに疲弊していたウォルスキ兵は、ローマ兵の抵抗にあって無秩序な状態となって撃退された。ローマ軍は逃げるウォルスキ軍を追撃してその野営地を占領、さらに前進してウォルスキ都市であるウェリトゥラエを占領し、そこに逃げ込んだウォルスキ兵だけでなく市民も殺害、少数のみが降伏して生き残ることができた。 ウェリトゥラエ周辺の土地も略奪され、街はローマの植民都市(コロニア)となった。
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