紀元前494年のアエクイ族の侵攻
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「ローマ・アエクイ戦争」の記事における「紀元前494年のアエクイ族の侵攻」の解説
紀元前494年、ローマではパトリキ(貴族)とプレブス(平民)の対立が激化しており、それを見たウォルスキ族、サビニ族、アエクイ族は同時に軍事行動を起こした。この危機に、ローマはマニウス・ウァレリウス・マクシムスを独裁官に選出した。10個ローマ軍団が編成されたが、これはそれまで編成された最大の軍であり、うち3個軍団が執政官ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスの下アエクイ族と戦うこととなった。 アエクイ族はラティウムに侵略、ウェトゥリウスはラティウム同盟都市からの要請を受けて、ラティウムに向かった。ローマ軍が到着すると、アエクイ族はラティウムを離れ東側の安全な山中に撤退した。 ローマ軍も直ぐにアエクイ軍野営地のある山岳部に向かった。アエクイ軍野営地は険阻な場所にあったため、ウェトゥリウスは早急な攻撃を行うことを望まなかったが、ローマでの政治問題のために早くローマに戻りたい兵士達は、直ちに攻撃を行うことを望んだ。このため、ローマ軍兵士達はアエクイ軍野営地に向かって丘を登り始めた。これを見たアエクイ兵はローマ軍の勇敢さに驚き、野営地を捨てて脱走した。ローマ軍は野営地を占領、遺棄された戦利品を確保し、無血での勝利を収めた。
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