紀元前494年の誓約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/12 19:01 UTC 版)
「ローマ・サビニ戦争」の記事における「紀元前494年の誓約」の解説
紀元前494年、ローマではプレブスとパトリキの対立が激化していたが、ウォルスキ、サビニ、アエクイは同時に武器をとった。この危機にマニウス・ウァレリウス・マクシムスが独裁官に就任した。ローマでは10個軍団が編成されたが、これはこれまでのローマの歴史の中で最大のものであった。内、4個軍団が独裁官に与えられサビニ軍に対処することになったが、これはサビニが最大の脅威と認識されたからである。 ウァレリウスはサビニに向かったが、戦闘が発生した場所は不明である。サビニ軍は横に広く展開していたため、中央部が弱くなりすぎていた。ウァレリウスはサビニ軍中央部に騎兵突撃をかけ、続いて歩兵に攻撃させた。サビニ軍は撃破され逃走し始めた。ローマ軍はサビニ軍野営地を占領し、勝利を宣言した。この勝利はローマにとって顕著なものであり、当時においてこれを上回るものはレギッルス湖畔の戦い(紀元前496年)での勝利のみと言われた。 独裁官ウァレリウスはローマに帰還し、凱旋式を挙行した。加えて、ウァレリウスとその子孫に対し戦車競技場に最高貴賓席(en)が与えられた。
※この「紀元前494年の誓約」の解説は、「ローマ・サビニ戦争」の解説の一部です。
「紀元前494年の誓約」を含む「ローマ・サビニ戦争」の記事については、「ローマ・サビニ戦争」の概要を参照ください。
- 紀元前494年の誓約のページへのリンク