レギッルス湖畔の戦いとは? わかりやすく解説

レギッルス湖畔の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 05:21 UTC 版)

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レギッルス湖畔の戦い

Castor and Pollox fighting at the Battle of Lake Regillus」、『レギッルス湖畔の戦いで奮戦するカストールポリュデウケース』、イングランド人画家ジョン・ラインハルト・ウェグリンの1880年の作品
戦争:第一次ラティウム戦争
年月日紀元前499年もしくは紀元前496年
場所:レギッルス湖畔(現:フラスカーティ近郊)
結果共和政ローマの勝利
交戦勢力
共和政ローマ ラティウム人
指導者・指揮官
アウルス・ポストゥミウス
ティトゥス・アエブティウス・ヘルウァ
オクタウィウス・マミリウス
タルクィニウス・スペルブス

レギッルス湖畔の戦い (: Battaglia del Lago Regillo) とは、第一次ラティウム戦争中の紀元前499年もしくは紀元前496年頃に行われた共和政ローマラティウム人の連合軍との戦いである。

概要

紀元前509年王政ローマの第7代の王であったタルクィニウス・スペルブスルキウス・ユニウス・ブルトゥスらによってローマより追放され、エトルリア出身であったタルクィニウスが支援を求めたラティウム人たちが主導して起こされた戦争が第一次ラティウム戦争であり、当戦争中の最大の戦いとされるレギッルス湖畔の戦いは、リウィウスによると紀元前499年もしくは紀元前496年頃に行われたと伝わっている。 

レギッルス湖(Regillus)は、ローマ市内のセルウィウス城壁から15マイル東のフラスカーティやトゥスクルム(Tusculum)の遺跡からほど遠くない立地にあったとされる。

ローマ側は独裁官アウルス・ポストゥミウス・アルブスと、独裁官ポストゥミウスのマギステル・エクィトゥムであったティトゥス・アエブティウス・ヘルウァらが軍を率いた。

一方のラティウム人側はラティウム都市トゥスクルムの王子であったオクタウィウス・マミリウス(Octavius Mamilius)とタルクィニウス、タルクィニウスの息子セクストゥスが指揮官となって、ラティウム軍を率いた。タルクィニウスが率いたことでローマ軍は過去のどの戦いより激しく戦った。

タルクィニウスはポストゥミウスとの戦いの初めの段階で負傷し、アエブティウスとマミリウスの軍の戦いでは、アエブティウスは胸に重傷を負った一方、マミリウスは腕に軽症を負った程度であった。

追放されたローマ人で構成されたタルクィニウスの軍隊はローマ軍の後方から攻勢をかけて、紀元前505年執政官を務めたマルクス・ウァレリウス・ウォルスス(Marcus Valerius Volusus)はセクストゥスの軍を攻撃しようとしていたときに槍で突き殺された。

ポストゥミウスは、自らの護衛部隊の中から部隊を切り出して戦闘へ投入、マミリウスはティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌスによって討ち取られたが、ヘルミニウスも槍で突き殺された。ポストゥミウスは騎兵部隊に馬から下りて敵を攻撃するように指示し、ラティウム軍は後退し、ラティウム軍の陣営は制圧された。

ポストゥミウスとアエブティウスはローマで凱旋式を挙げ、ポストゥミウスはこの戦勝を以てレギッレンシス(Regillensis)の尊称を得た。一方のタルクィニウスはローマへ戻ることは無く、紀元前495年頃に亡命先のクーマエで死去した。

ローマの伝説では、ディオスクーロイカストールポリュデウケース)が騎兵となって勝利に導いたとされる。ポストゥミウスは二人が馬に水を飲ませていたフォロ・ロマーノにディオスクローイの神殿を建設するように命じたと伝わっている。

参考文献

レギッルス湖畔の戦いが行われたとされる「プラタポルキ」一帯
1次出典
2次出典

レギッルス湖畔の戦い

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ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の記事における「レギッルス湖畔の戦い」の解説

詳細は「レギッルス湖畔の戦い」を参照 紀元前498年ローマラテン人の間に戦争発生する第一次ラティウム戦争)。王政ローマ末期多くラテン都市ローマ同盟結んでおり、共和政になって同盟維持する都市もあったが、復位を狙うタルクィニウスを支援する都市もあった。ラテン同盟側はトゥスクルムen)の王子でタルクィニウスの義理の息子であるオクタウィウス・マミリウス(en:Octavius Mamilius)が軍の司令官となった。これに対処するため、ローマアウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシス独裁官ディクタトル)に任じティトゥス・アエブティウス・ヘルウァ騎兵長官マギステル・エクィトゥムとなった。ヘルミウスもローマ軍将軍として出征し両軍はレギッルス湖近く激突した戦いの中で、アエブティウスは馬上からマミリウスを認めた両者怒りをもって戦い両者とも重傷負った。アエブティウスは戦場から離脱して後方から騎兵指揮せざるを得なくなった他方マニリウスも一旦は後退したが、亡命ローマ人編成された部隊がポストミウスに突破されようとするのを見て、これを救うために戦場戻った。これをヘルミニウスが見つけた。 ヘルミニウスは突進したが、ティトゥス・リウィウスによればその怒りはアエブティウスのそれよりもはるかに激しいものであった。ヘルミニウスはマニリウスを腹部への一撃討ち取った続いてマニリウスの甲冑剥ぎ取ろうとしたが、そのとき投槍を受け瀕死の重傷負った。ヘルミニウスは後方運ばれ治療受けたものの、傷が元で死亡した

※この「レギッルス湖畔の戦い」の解説は、「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の解説の一部です。
「レギッルス湖畔の戦い」を含む「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の記事については、「ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス」の概要を参照ください。

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