対立と協力をくり返した両雄:汪兆銘と蔣介石とは? わかりやすく解説

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対立と協力をくり返した両雄:汪兆銘と蔣介石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「対立と協力をくり返した両雄:汪兆銘と蔣介石」の解説

1925年7月1日広州では広東軍政府機構再編され国民党一期三中全会国共合作中華民国国民政府広州国民政府)が正式に成立した汪兆銘政府主席務め財政部長には孫文片腕となって国民党改組推進した党内左派廖仲愷就任したまた、工人部、農民部などの省庁設けられ、その責任者には国民党籍も持つ共産党員任命された。政治顧問にはボロディンが、軍事顧問には同じくソ連のブリュヘル(ガレン)が就きソビエト連邦からの緊密な支援関係が構築されていた。ところが、同年8月20日廖仲愷暴徒によって暗殺され、その暗殺事件従兄弟かかわっていたとして胡漢民が自ら国民党内の役職から退いた。このとき、蔣介石左派与し胡漢民一時監禁している。 こうして、いったん右派勢力後退したものの、11月には再び台頭してくる。戴季陶張継林森居正古参国民党員の一部が、北京郊外西山碧雲寺集まり、四中全会の名で共産党員国民党籍を剥奪ボロディン解職汪兆銘の6か月間の党籍剥奪などを公然と決議した西山会議派)。もとより左派はこれを容認せず、ただちに西山会議で決議され諸事項無効宣言した1926年1月国民党第2回全国代表大会では、汪兆銘他者おさえて中央委員第一位当選した。汪は国民政府主席軍事委員会主席の地位に就き名実ともに国民党指導者となった。なお、当時蔣介石はまだ軍事委員委員黄埔軍官学校校長にすぎなかった。

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