対立と協力をくり返した両雄:汪兆銘と蔣介石
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1925年7月1日、広州では広東軍政府の機構が再編され、国民党(一期)三中全会で国共合作の中華民国国民政府(広州国民政府)が正式に成立した。汪兆銘は政府主席を務め、財政部長には孫文の片腕となって国民党改組を推進した党内左派の廖仲愷が就任した。また、工人部、農民部などの省庁も設けられ、その責任者には国民党籍も持つ共産党員が任命された。政治顧問にはボロディンが、軍事顧問には同じくソ連のブリュヘル(ガレン)が就き、ソビエト連邦からの緊密な支援関係が構築されていた。ところが、同年8月20日、廖仲愷が暴徒によって暗殺され、その暗殺事件に従兄弟がかかわっていたとして胡漢民が自ら国民党内の役職から退いた。このとき、蔣介石は左派に与し、胡漢民を一時監禁している。 こうして、いったん右派勢力は後退したものの、11月には再び台頭してくる。戴季陶・張継・林森・居正ら古参国民党員の一部が、北京郊外の西山碧雲寺に集まり、四中全会の名で共産党員の国民党籍を剥奪、ボロディンの解職、汪兆銘の6か月間の党籍剥奪などを公然と決議した(西山会議派)。もとより、左派はこれを容認せず、ただちに西山会議で決議された諸事項の無効を宣言した。 1926年1月の国民党第2回全国代表大会では、汪兆銘は他者をおさえて中央委員第一位に当選した。汪は国民政府主席兼軍事委員会主席の地位に就き、名実ともに国民党の指導者となった。なお、当時の蔣介石はまだ軍事委員会委員で黄埔軍官学校の校長にすぎなかった。
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