対立と承認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 03:32 UTC 版)
「国民議会 (フランス革命)」の記事における「対立と承認」の解説
2日後、球戯場の使用も禁止された国民議会がサン・ルイ教会で会議を開いたところ、聖職者議員の大多数が合流し、旧体制を持ち直す試みは事態の加速を招いただけとなった。6月23日、国王は満を持して三身分に勅語を述べたが、冷ややかな沈黙で迎えられることとなり、全員に解散を命じて会議を終えた。貴族と聖職者がこれに従ったのに対し、平民議員は黙って座り続けていたところ、オノーレ・ミラボーが「軍隊が議会を包囲している!どこに国民の敵がいるのか?ここにカティリナがいるのか?私は、諸君が自らの尊厳と立法権にかけて自らなした誓いを守ることを求める。憲法を制定するまで解散してはならない」と短く演説して沈黙を破り、議員らは立場を貫いた。 当日、ネッケルは国王側に姿を現さなかったためにかえって人目を引くこととなり、ルイ16世の不興を買ったが、国民議会の知遇を得るところとなった。サン・ルイ教会で国民議会に合流した聖職者は国民議会にとどまり、オルレアン公爵をはじめとする47人の貴族もほどなく合流した。フランス軍がパリやヴェルサイユの周辺に押し寄せ始め、軍によるカウンタークーデターの可能性も浮上していたが、6月27日までには国王側も屈服した。 6月23日の親臨会議 (fr:séance royale du 23 juin 1789) において、国王は欽定憲章(Charte octroyée、一種の欽定憲法)を発布し、慣習に従い三身分が三部会を形成し身分別審議を行う権利を確認していたが、無駄であった。国王の要請で、最後まで合流しなかった貴族議員の一部も国民議会へ合流した。ここに三部会は幕を閉じ、身分別に選出された議員をそのまま引き継ぐ形で国民議会(1789年7月9日に憲法制定国民議会と改称)に移行したのである。
※この「対立と承認」の解説は、「国民議会 (フランス革命)」の解説の一部です。
「対立と承認」を含む「国民議会 (フランス革命)」の記事については、「国民議会 (フランス革命)」の概要を参照ください。
- 対立と承認のページへのリンク