執政官選挙
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「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事における「執政官選挙」の解説
紀元前107年末、カトゥルスは義兄弟のカエピオと共に執政官に立候補した。この選挙でカエピオは当選したが、カトゥルスは落選してしまった。もう一人の当選者はガイウス・アティリウス・セッラヌスであった。翌年もパトリキであるプブリウス・ルティリウス・ルフスと共に立候補し、ルフスは当選したもののカトゥルスはまたも敗れた。当選したグナエウス・マッリウス・マクシムスはノウス・ホモ(新人)であるだけでなく、あらゆる点でカトゥルスに劣っていた。選挙が行われたときにカエピオはガリアで戦っており、セッラヌスが選挙を監督したことが大きかったかもしれない。マッリウスは後にカエピオと共にアラウシオの戦いでキンブリ族に大敗する。このときカエピオはプロコンスル(前執政官)で、本来はマッリウスの指揮に従う必要があったが、これを拒否した。これはマッリウスがカトゥルスに選挙で勝利したことに不満を持っていたためとの説もある。何れにせよ、両人が率いていたローマ軍は壊滅した。 紀元前105年末、カトゥルスは三度目の出馬を行った。しかし、またもノウス・ホモであるガイウス・フラウィウス・フィンブリアに敗北した。今回の落選は、明らかに義兄弟カエピオのアラウシオでの敗北が大きかった。三度連続して執政官選挙に落選したことは、政治歴の終わりを意味する。このため翌年の執政官選挙への立候補は見送った。さらにカエピオは敗戦の責任を問われて追放刑となり、カトゥルスはもはや支援を受けることができなくなった。 紀元前104年、ガイウス・マリウスが二度目の執政官に就任した。マリウスは優秀な軍人であったが、ゲルマン人の脅威に対処するため、この後ウィッリウス法の規定を無視して、5年連続で執政官に就任する。マリウスはほぼディクタトル(独裁官)と言っても良い権限を持ち、実際に同僚執政官を選ぶ権利さえ与えられた。紀元前103年にはルキウス・アウレリウス・オレステスが選ばれ、そして紀元前102年にはカトゥルスが選ばれたのである。 歴史学者は、何故このようなことが起こったのかに対して、様々な意見を出している。ある見方によれば、カトゥルスの選出は反マリウス派の勝利であり、「永久執政官」の影響力を多少なりとも打ち消そうとしたとする。プルタルコスは、カトゥルスを「貴族の間で尊敬され、同時に民衆に好まれる人物」と呼んでいるが、マリウスはカトゥルスと折り合いをつけなければならなかった。別の意見では、カトゥルスは元老院から積極的な支持は得ていなかったとする。紀元前103年末の選挙で勝利できたのは、むしろマリウスの支援のおかげであった。マリウスの妻はユリウス氏族の出身であり、カトゥルスの母の再婚相手もユリウス氏族であったためだ。マリウスは、忠実で独立しすぎない同僚を得ることを望んでいたのかもしれない。加えて、カトゥルスがマリウスに近づいたことは、メテッルス家とその派閥に打撃を与えることになったかもしれない。マリウスはメテッルス派が拒否したカトゥルスに、より高い地位を与えた。この説は、マリウスがその後の数年間に繰り返し示した協力への意欲によって裏付けられている。最後に、カトゥルスの執政官就任は、妻の実家であるドミティウス氏族の支援があったとの説もある。ただし、この結婚自体が疑わしいこと、過去3回の選挙でドミティウス氏族がカトゥルスを支援しなかった理由が明らかでないことから、これに反対する意見もある。
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