執政政治時代と帝政時代
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「シャルル・エチエンヌ・ギュダン・ド・ラ・サブロニエール」の記事における「執政政治時代と帝政時代」の解説
1804年、ナポレオン(1世)はルイ=ニコラ・ダヴーの第3部隊を彼に預ける。ギュダンはこれを用いて1805年オーストリア遠征を行い、さらに1806年プロシア、1807年ポーランドへ遠征。1805年から1806年、大陸軍のアウエルシュタットの戦いにおいて負傷するもさらにアイラウの戦いに加わる。1805年から1813年にかけてルイ・フリアン(第1部隊)およびシャルル・アントワン・モラン(第2部隊)らの将官とともに第3部隊の司令部に参加。ナポレオンに"brelon"と称される。 1809年、ギュダンはダヴー部隊右翼の指揮を行い、タンおよびアベンスベルクの役で顕著な活躍を見せる。部隊を率いてジャン・ランヌの指揮下に入り、エクミュールの戦いおよびレーゲンスベルクの戦いで軍事的才覚を大きく伸ばす。プレスブールの障壁となっていたドナウ川の島のひとつを排除した功績によってレジオン・ドヌール最高勲章を授与される。さらにはヴァグラムの戦いでは再び負傷するものの、栄誉ある戦績を残す。 ギュダンが将軍として名を挙げたのはロシア遠征の初期である。ヴァルティノの戦い(8月19日)では、ロシア軍の縦隊を撃破した彼の部隊が続けざまに敵陣を奪う活躍を見せるが、このとき大砲の弾が命中してギュダンは片脚を失った。一旦は命は取り留めたものの、壊疽によりスモレンスクにて1812年8月22日没した。 遺体はスモレンスクに埋葬された。フランス軍はこれを掘り起こして帰還させるつもりでいたが、軍の敗走撤退によりそれは叶わなかった。2019年になりフランス政府の要請を受け、ロシアとフランスの研究科チームが埋葬場所と看られる墓を発掘した。発見された遺骨の片脚が無いという状況およびDNA鑑定による確認の結果、ギュダン本人のものであると確認された。遺骨は今後、フランス国内に持ち帰られ、ナポレオンの墓所もある廃兵院(オテル・デ・ザンヴァリッド)など適切な地が選ばれ、安置される予定である。 ギュダンは帝国元帥ルイ=ニコラ・ダヴーの親しい友人でもあり、また、ブリアンヌ時代からの知己であったナポレオンには特に個人的な交流があり、評価されていた。
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