ルイ=ニコラ・ダヴーとは? わかりやすく解説

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ルイ=ニコラ・ダヴー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/26 09:11 UTC 版)

ルイ=ニコラ・ダヴー
Louis-Nicolas d'Avout/Davout
ダヴー元帥
生誕 1770年5月10日
フランス王国、アヌー
死没 1823年6月1日
フランス王国(復古王政)、パリ
所属組織 フランス軍
軍歴 1788年 - 1815年
最終階級 帝国元帥
除隊後 陸軍大臣(英語版)
墓所 ペール・ラシェーズ墓地
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エックミュール大公およびアウエルシュタット公ルイ=ニコラ・ダヴー (Louis-Nicolas d'Avout/Davout, 1770年5月10日 - 1823年6月1日) は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人・元帥。アウステルリッツの戦い、アウエルシュタットの戦い、エックミュールの戦い(英語版)、ヴァグラムの戦いなどで戦功を挙げ、1813年から1814年までのハンブルク包囲戦ではナポレオン・ボナパルトが退位した後もハンブルクを守備し続けた[1]。百日天下では陸軍大臣(英語版)を務め、パリから離れられなかったためワーテルロー戦役に参加できなかった[1]。

生涯

1770年5月23日、アヌー(英語版)で生まれた[1]。1788年に少尉としてフランス陸軍に入り、翌年にフランス革命が勃発するとそれを支持した[1]。1792年にフランス革命戦争が勃発すると志願兵になり、少佐(chef de bataillon)として同年の戦役に参戦、1793年春のネールウィンデンの戦いで戦功を立てた[1]。同年に旅団将軍に昇進したが、直後に貴族出身が災いして陸軍から追放された[1]。もっとも、ダヴーはすぐに復職して、1794年から1797年までのライン川戦役に参戦、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーに同伴してナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征に参戦した[1]。

ヨーロッパに戻った後、1800年に師団将軍に昇進、1801年に執政近衛隊(英語版)の指揮官の1人に任命された[1]。1804年に第一帝政が成立すると、帝国元帥に任命された[1]。

大陸軍の第3軍団(英語版)の指揮官を務め、第三次対仏大同盟戦争では1805年のアウステルリッツの戦いで敵軍から集中的に攻撃された[1]。第四次対仏大同盟戦争におけるアウエルシュタットの戦い(1806年)では1個軍団でプロイセン本軍を撃破した[1]。1807年のアイラウの戦いとフリートラントの戦いでも武勲を立てた[1]。同年にティルジットの和約が締結されると、ナポレオンによりワルシャワ公国総督に任命され、1808年にアウエルシュタット公に叙された[1]。

1809年オーストリア戦役(第五次対仏大同盟戦争)ではエックミュールの戦い(英語版)、ヴァグラムの戦いでの勝利に貢献した[1]。このころにエックミュール大公に叙された[1]。

ダヴーはナポレオンの指令に従ってエルベ監視軍(Corps d'Observation de l'Elbe)を編成し、ナポレオンは1812年ロシア戦役でこの軍を率いてロシアに侵攻した[1]。この戦役において、ダヴーは7万人を超える第1軍団(英語版)の指揮官を務め、サルタノヴカの戦い(英語版)でロシア軍を撃破した後フランス本軍と合流した[1]。以降モスクワから撤退するまで戦役に参加した[1]。

1813年の第六次対仏大同盟戦争ではハンブルク軍区の守備を命じられ、ハンブルクに籠城した[1]。ハンブルクは防御工事が弱く、城内の不満も多かったものの、ダヴーはハンブルク包囲戦を1814年のナポレオン退位の後まで戦い抜き、国王ルイ18世からの降伏命令が届いてようやく降伏した[1]。

第一次王政復古でブルボン王家に反対して陸軍を引退、1815年にナポレオンがエルバ島から脱出する(百日天下)と直ちにナポレオンと合流した[1]。ダヴーは陸軍大臣(英語版)に任命され、短期間でフランス陸軍を再編したが、ワーテルロー戦役の間もパリに留まることを余儀なくされ、戦役に参加できなかった[1]。『ブリタニカ百科事典第11版』はダヴーを指揮官として起用しなかったナポレオンのミスであると批判した[1]。ワーテルローでナポレオンが敗北した後、ダヴーはパリを守備した[1]。

第二次王政復古の後、ミシェル・ネイ元帥の処刑を防ぐ奔走したが失敗に終わり、自身も元帥位と爵位を剥奪された[1]。その後、ブルボン王家と和解して、1817年に元帥位と爵位を回復、1819年に貴族院議員に就任した[1]。1823年6月1日、パリで死去した[1]。

評価

『ブリタニカ百科事典第11版』(1911年)は軍人としてのダヴーを残忍で貪欲と評し、特にハンブルク包囲戦における行動が広く批判されたという[1]。ただし、同書はダヴーの貪欲さの理由をナポレオンからの命令に帰している[1]。

規律に厳格だったため、ダヴー率いる軍団がほかの軍団より信頼のおけることが多く、大陸軍が編成された初期はダヴー率いる第3軍団に最も困難な軍事行動が振り分けられることが多かった[1]。『ブリタニカ百科事典第11版』によれば、ナポレオン麾下の元帥のなかでも軍事の才能に恵まれた人物の1人とするのが同時代と後世における評価である[1]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Davout, Louis Nicolas” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 7 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 870–871.

関連項目

外部リンク

公職
先代
アンリ・ジャック・ギヨーム・クラーク(英語版)
陸軍大臣(英語版)
1815年
次代
ローラン・ド・グーヴィオン=サン=シール
フランスの爵位
爵位創設 アウエルシュタット公(英語版)
1808年 – 1823年
次代
ナポレオン=ルイ・ダヴー(英語版)




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