百日天下とその後
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「ルイ=ガブリエル・スーシェ」の記事における「百日天下とその後」の解説
一旦新王ルイ18世に忠誠を誓ったスーシェだったが、ナポレオンがエルバ島を脱出するとネイに誘われてその麾下に戻る。ナポレオンは彼をアルプス方面軍総司令官に任命しイタリア方面とフランス本国の守備を委ねたが、いくらそれが重大な任務とはいえこの人事には批判が多い。彼は参謀総長としてはスールトよりよほど適任であり、また前線指揮官としてもその力は主戦場である西部戦線でこそ振るわせるべきだったとされる。事実ナポレオン自身も、後に「グルーシィではなくスーシェを用いていれば、ワーテルローでは勝っていただろう」と回想している。スーシェはアルプス方面で攻勢を掛けたがその途中でワーテルローの敗報が入り、降伏する。王政復古後はネイの逃亡に力を貸そうとし、一時追放されたが程なく名誉回復が為され、その後は公職につくことなく平穏に生涯を終えた。その死を知ったサラゴサ市民は追悼のミサを行ったという。
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百日天下とその後
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「ルイ=ニコラ・ダヴー」の記事における「百日天下とその後」の解説
新王ルイ18世に忠誠を誓わず追放されたダヴーは、ナポレオンがエルバ島から脱出すると、いち早く皇帝を支持する。皇帝は彼を戦争大臣に任命、ダヴー本人は前線で戦うことを希望したが、皇帝の方にも安心してパリを任せられる者がいないという事情があり、やむなくこれを引き受けることになる。そしてここでも有能なところを見せ、わずか三ヶ月で軍の再編を完成させた。ワーテルローの戦いでの敗戦を知ると、即座に手持ちの軍を率いて敗残の友軍を救援に向かう。その後勝ち誇るプロイセン軍を粉砕するなど、相変わらずの辣腕を発揮し、連合軍との協定が成立するまでパリを守り抜いた。 王政復古後は、再び全ての役職を剥奪され警察の監視を受けるが、旧友ネイの裁判の折には、危険を顧みず弁護人としてパリに赴いた。その硬骨振りが仇となって一時逮捕されるなど困窮を極めたが、1817年にようやく名誉回復がなされて元帥号を取り戻し、1819年には貴族院議員となった。1822年にサヴィニー=シュル=オルジュの市長に選出され、翌年まで同職にあった。1823年6月1日、肺結核で死去。ネイやマッセナと同じくパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。 息子の第2代エックミュール大公・アウエルシュタット公ナポレオン・ルイ・ダヴー(1811年 - 1853年)は子がなく断絶したが、1864年、第二帝政でナポレオン3世がアウエルシュタット公のみの再綬爵を認め、第2代の従弟にあたるレオポルド・ダヴー(フランス語版)(1829年 - 1904年)が第3代アウエルシュタット公となった。以後はこの家系が続き、第5代レオポルド・ダヴー(1904年-1985年)は日本人・鮎沢露子(父は鮎沢巌)と結婚し、第6代シャルル・ルイ・イワオ・ダヴー(1951年-2006年)らの子を儲けた。
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百日天下とその後
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「ナポレオン・ボナパルト」の記事における「百日天下とその後」の解説
ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。 1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、苦労してパリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンの「百日天下」は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。 ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカ合衆国への亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南大西洋のセントヘレナ島に幽閉した。 ナポレオンはベルトラン、モントロン、グールゴ(フランス語版)、ラス・カーズらごく少数の従者とともに、島内中央のロングウッド・ハウスで生活した。高温多湿な気候と劣悪な環境はナポレオンを大いに苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、常時行動を監視され、さらに乗馬での散歩も制限されるなど、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは、側近に口述筆記させた膨大な回想録を残した。これらは彼の人生のみならず彼の世界観、歴史観、人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。 ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ローの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振る舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した(もっとも、腐ったブドウ酒はともかく、イギリス政府はナポレオンの帝位を承認していないので、イギリスの公人としては「将軍」としか呼びようがない)。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はローという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。 そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し、スペイン立憲革命やギリシャ独立戦争で欧州全体が動揺する中、1821年5月5日に死去した。彼の遺体は遺言により解剖されて胃に潰瘍と癌が見つかり、死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された(彼の死因をめぐる論議については次節で述べる)。その遺体は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。最期の言葉は「フランス!…軍隊!…軍隊のかしらに…ジョゼフィーヌ!」だった。
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