死因をめぐる論議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 17:51 UTC 版)
「ナポレオン・ボナパルト」の記事における「死因をめぐる論議」の解説
ヒ素(砒素)中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返したとき、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかったこと(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)、さらには、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、英国グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を検出して、砒素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた毒殺説以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われており、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという中毒説がある。フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、2002年に改めてパリ警視庁とストラスブール法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前からヒ素中毒であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明した。生前にヒ素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった。よってヒ素による慢性あるいは急性の中毒説は(消極的に)否定された。 死の直後に発表された胃癌説(病死説)は公式には今まで一度も覆されたことはなく[要出典]、最近の研究でも胃癌を支持するものがある。また同様に胃潰瘍説も取り沙汰されている。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がおり、ナポレオン自身もまた胃潰瘍であった。特に1817年以降、体調は急激に悪化している[要出典]。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかった[要出典]。 そのほか、20年以上にわたり戦場を駆けた重圧と緊張が、もともと頑丈ではなかった心身に変調を来させたという説もある。若いころは精神力でカバーできていたが、40歳を迎えるころにはナポレオンの体を蝕んでいたという主張で、その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるという。胃潰瘍とともに悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因と主張する医学者もいたヒルマン博士の「ナポレオン1世の神経性内分泌異常症候群」およびフリュジェ博士の「脳下垂体異常」[要出典]。 このように様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、医療ミス説である。カリフォルニア大学バークレー校の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、さらに死の前日には嘔吐剤として甘汞(かんこう)を大量に処方していたことに気づいた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する。 総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。ヒ素毒殺説は有名であるため誤解されやすいが、フランスでの公式見解は一貫して胃癌説である[要出典]。
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