死因をめぐる議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 14:09 UTC 版)
「ウラジーミル・マヤコフスキー」の記事における「死因をめぐる議論」の解説
ソ連末期のグラスノスチに伴い、公式に「自殺」とされてきた死因についてそれを疑い、謀殺ではないかとする議論が巻き起こった。1989年にテレビの討論番組で取り上げられたのをきっかけに、複数の論者がこれを主張した。特にマヤコフスキーの周囲にブリーク夫妻やアグラーノフら、チェーカーやOGPU・NKVDにつながる人物が多数存在したことはこの段階で初めて明るみに出た。これらを受けて、1992年にはマヤコフスキーに関するKGB資料が公開されたり、マヤコフスキー博物館の所蔵していた死亡時の遺品が科学鑑定にかけられたりした(鑑定では自殺説を裏付ける結果が出ている)。加えて、リーリャ・ブリークの回想録やポロンスカヤへのインタビューが公刊されたり、遺児であるエレーナが名乗り出たことで、死に至る晩年の状況が明らかとなった。1994年4月には「マヤコフスキーの死をめぐる円卓会議」が40人の出席者を得て開催されている。 亀山郁夫は、謀殺説の主唱者が根拠としてあげているものは「そのほとんどが状況証拠とみられるものばかり」と評し、自殺か他殺かは「火を見るより明らか」としながらも、「謀殺説が突きつけた多くの疑問に対し、十分な答えがなされたともいいがたい」と述べている。 一方、マヤコフスキーに関する複数の訳書がある小笠原豊樹は、2013年の著書『マヤコフスキー事件』(河出書房新社)の中で、資料に基づき、他殺であると主張している。 亀山は小笠原の没後の2017年に刊行された対談形式の著書で、改めて「九十九パーセント自殺」「(自殺が定説に)なっています。元に戻っている」と述べるとともに、「残念ですが、小笠原さんの説は、あまり説得力がありません」と指摘している。
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