百日攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
詳細は「百日攻勢(英語版)」および「ヴァイマル共和政」を参照 「百日攻勢」として知られている連合国軍の反攻は1918年8月8日のアミアンの戦い(英語版)で始まった。この戦闘では戦車400台以上とイギリス軍、イギリス自治領軍、フランス軍合計12万人以上が参加、その1日目の終わりにはドイツ軍の戦線に長さ24kmの間隙が開かれた。ドイツ軍の士気は大きく低下して、エーリヒ・ルーデンドルフに「ドイツ陸軍暗黒の日」と言わしめた。連合国軍が23kmほど前進したのち、ドイツ軍の抵抗が強くなり、アミアンの戦いは8月12日には終結した。 それまでの戦闘では初期の成功をさらに推し進めることが常だったが、連合国軍はアミアンの戦いで勝利した後、そのまま攻撃を続けず、他の戦場に移った。連合国の首脳部は敵軍の抵抗が強化された後でも攻撃を続けるのはただ兵士を浪費するだけであり、敵の戦線を押し潰すよりも側面に回り込む方が有利であると気づいた。そのため、連合国軍は側面への素早い攻撃を行って、攻撃の勢いが低減するとすぐに攻撃をやめる、という戦術を繰り返し行った。 イギリスとイギリス自治領軍は8月21日のアルベールの戦い(英語版)で戦役の次の段階に進んだ。その後の数日間、英仏軍は攻撃を拡大した。8月末には連合国軍の長さ110kmにわたる前線への圧力が重く、ドイツ側の記録では「毎日が強襲の止まない敵軍との血なまぐさい戦いに費やされ、新しい前線への撤退で夜は眠れないまま過ぎた。」としている。 これらの敗退により、ドイツの陸軍最高司令部は9月2日に南のヒンデンブルク線(英語版)への撤退を命じ、4月に奪取した突出部(英語版)を抵抗もなく放棄した形となった。ルーデンドルフによると、「前線全体をスカルプ川(英語版)からヴェール川(英語版)に後退することは簡単に決定できるものではなかったが、(中略)いくらかの犠牲を払っても利益のある決定である」という。 9月には連合国軍がヒンデンブルク線の北部と中央部に進軍した。ドイツ軍後衛は活発に戦い、失われた陣地への反攻もしたが、成功したものは少なく、成功した攻撃でも一時的な奪還にしかならなかった。ヒンデンブルク線の偵察陣地や哨戒地の町村、山、塹壕などは続々と連合国軍に占領され、イギリス海外派遣軍は9月最後の1週間だけで30,441人を捕虜にした。9月24日には英仏が突撃してサン=カンタンから3kmのところまで近づいた。ドイツ軍はヒンデンブルク線上とその後ろの陣地に撤退した。 8月8日から4週間の間、ドイツ軍10万人以上が捕虜になった。「ドイツ陸軍暗黒の日」の時点でドイツ軍部は戦争全体がもはや負け戦であると気づき、ドイツにとって満足のいく終戦を模索した。暗黒の日の翌日、ルーデンドルフは「我らは戦争に勝てなくなった。しかし負けるわけにもいかない」と述べた。11日には辞表を出したが、ヴィルヘルム2世は「我らは妥協しなければならない。我らの抵抗の力は限界にきていた。戦争は終わらなければならない。」と返答、ルーデンドルフの辞任を拒否した。13日、ルーデンドルフ、帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリング、参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク、外相パウル・フォン・ヒンツェ(英語版)はスパで討議し、軍事力で戦争を終結させることが不可能であるという結論を出した。翌日にはドイツ皇帝諮問委員会が戦場での勝利はほぼ不可能であると結論を出した。オーストリア=ハンガリーは12月までしか戦争を続けられないと警告、ルーデンドルフは講和交渉を即刻始めることを勧めた。ループレヒト・フォン・バイエルンはマクシミリアン・フォン・バーデンに「軍事情勢が悪化しすぎて、私は冬の間持ちこたえられることが信じられなくなった。災難はそれよりも早く訪れるかもしれません。」と警告した。9月10日、ヒンデンブルクはオーストリア皇帝カール1世に平和に向けた動きを迫り、ドイツはオランダに仲介を求めた。9月14日、オーストリアは全交戦国と中立国に覚書を送り、中立国での平和会議を提案した。15日、ドイツはベルギーに講和を申し入れた。しかし、いずれも拒絶され、9月24日にはドイツ軍部がベルリン政府に停戦交渉が不可避であると通告した。 ヒンデンブルク線に対する最後の攻撃は9月26日にフランスとアメリカ軍によるムーズ・アルゴンヌ攻勢で始まった。その後の1週間、フランスとアメリカ軍はブラン・モンの戦い(英語版)でシャンパーニュから突破、ドイツ軍はブラン・モンの山から撤退してフランス・ベルギー国境に向けて撤退せざるを得なかった。10月8日、ドイツ軍の防御線はカンブレーの戦い(英語版)でイギリスとイギリス自治領の軍に突破された。ドイツ軍は前線を短縮させて、オランダ国境を利用して後衛への攻撃を防ぎつつドイツに撤退した。 ブルガリアが9月29日に単独で停戦協定を結ぶと、既に数か月間巨大な圧力に苦しんでいたルーデンドルフは神経衰弱のような症状を来した。ドイツが守備に成功することはもはや不可能であった。 ドイツの敗北が近いことはドイツ軍に知れ渡り、兵士反乱の脅威が広まった。ラインハルト・シェア海軍大将とルーデンドルフはドイツ海軍の「勇気」を回復するための最後の賭けに出た。マクシミリアン・フォン・バーデン率いるドイツ政府が反対することは明らかだったため、ルーデンドルフは行動をマクシミリアンに報告しないことにした。しかし、攻撃の計画がキールの水兵の耳に入ってしまった。その多くが攻撃計画を自殺行為と考え、攻撃に参加したくなかったため反乱を起こして逮捕された。ルーデンドルフは責任を負って10月26日にヴィルヘルム2世に罷免された。バルカン戦線の崩壊はドイツが石油と食料の主な輸入先を失うことを意味した。さらに、アメリカ兵が平均して日1万人が到着する中、ドイツは既に予備軍を使い果たしていた。アメリカは連合国軍の石油を8割以上提供しており、しかも不足はなかった。 ドイツ軍が弱まっており、ヴィルヘルム2世も自信を失ったため、ドイツは降伏へと移った。マクシミリアン・フォン・バーデンは帝国宰相として新しい政府を率いて連合国と交渉した。交渉条件がイギリスとフランスよりも寛大とされるから、スパで開かれていたドイツ軍の大本営は9月28日にウィルソン米大統領への講和交渉要請を決定した。ウィルソンはドイツ軍部が議会の統制を受けることと、立憲君主制の施行を要求した。ドイツ社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国樹立を宣言した時、抵抗を受けなかった。ヴィルヘルム2世、ドイツ諸邦の国王などの世襲君主は全て権力の位を追われ、ヴィルヘルム2世はオランダに逃亡した。ドイツ帝国は滅亡して、代わりにヴァイマル共和国が成立した。
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