王政復古後
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「コールドストリームガーズ」の記事における「王政復古後」の解説
コールドストリーム近衛歩兵連隊は、王政復古後のイギリス陸軍にとって初めての海外遠征である、1680年のタンジール以降殆どの戦役に参加しており、最も多くのバトル・オナーズ(Battle Honours)を持っている。1680年代にはガーター勲章の星章が連隊の記章として制定された。 ナポレオン戦争における1815年のワーテルローの戦いに於いては、コールドストリームガーズはウーグモン館(Château d'Hougoumont)攻防戦での勇戦が知られている。ウーグモン館はイギリス軍右翼に位置する城館で、中央のル・エイ・サント(La Haye Sainte)及び左翼のパプロットにある農家と共に防衛拠点とされていた。緒戦でパプロットは陥落し、ル・エイ・サントは両軍が衝突する中心となり最後には陥落した。一方、ウーグモン館はナポレオン・ボナパルトの最初の攻撃目標となり、開戦と同時に攻撃に晒され、フランス軍の前進により敵中に孤立した。コールドストリームガーズのジェームス・マクダネル中佐(James Macdonnell)が指揮する、コールドストリームガーズやスコッツガーズ等から分遣された軽歩兵中隊から成る4個中隊規模のイギリス軍守備隊は、オノレ・シャルル・レイユ(Honoré Charles Reille)が指揮するフランス1個軍団の攻撃を受けたにもかかわらず、戦いが終わるまでこの防御の要である城館を守り通した。フランス軍はウーグモン館が陥落しないことにより左翼の自由を奪われ、攻略のために1個軍団が終始釘付けにされた。 ウーグモン館の壁にはめ込まれたコールドストリームガーズの記念碑。連隊の記章であるガーター勲章の星が彫られている。 ウーグモン館の外壁。 ウーグモン館北門。補給のために開けられていたため、少数の敵の侵入を許したが、守備隊は後続を押し戻し、入り込んだ敵兵を皆殺しにした。 コールドストリームガーズ連隊第2大隊軽歩兵中隊が守っていた、敵正面にあたる敷地の南側に面した館の門。 横から見た館の南側。2つの窓の間にコールドストリームガーズの記念碑が埋め込まれている。 もう一つの重要な防御拠点となったル・エイ・サントの農家。 ナポレオン戦争後の1817年、”コールドストリームガーズ”が正式名称となった。1831年には”フュージリア”の称号を受け、連隊の全将兵に擲弾兵帽の着用が許された。そして、その帽子の右側に赤の羽根飾りが付けられるようになった。 1850年代に行なわれた陸軍の服装改訂により、歩兵の制服の上着は赤い1列ボタンのチュニックになった。それまで他の連隊の制服もボタンの配置が2個ずつの組になっていることがあったが、この改正以降上着のボタンが2個ずつ4組で計8個の制服はコールドストリームガーズを示す特徴となった。 1856年にヴィクトリア十字章が、そして1940年にジョージ・クロスが制定されて以来、コールドストリームガーズ連隊からは13名のヴィクトリア十字章受章者と1名のジョージ・クロス受章者が出ている。ヴィクトリア十字章が制定されたクリミア戦争では、インカーマンの戦い(Battle of Inkerman)とセヴァストポリ包囲戦で各2名の計4名が受章した。そして、第1次世界大戦では7名がヴィクトリア十字章を受章し、第2次世界大戦では2名がヴィクトリア十字章、1名がジョージ・クロスを受章した。 インカーマンの戦い 第1次世界大戦でのヴィクトリア十字章受章者トーマス・ホイットハム(Thomas Whitham)陸士(Private)。 第1次世界大戦でのヴィクトリア十字章受章者ジョン・ヴォーン・キャンベル(John Vaughan Campbell)中佐。
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王政復古後
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「サッカーカタルーニャ代表」の記事における「王政復古後」の解説
1975年にフランコ将軍が死去すると、フアン・カルロス1世による王政復古がなされ、スペインは制限君主制国家となった。これ以後のカタルーニャ選抜は定期的に親善試合を行なっている。1990年代後半からは、ブルガリア代表(1997年)、ナイジェリア代表(1998年)、ユーゴスラビア代表(1999年)、リトアニア代表(2000年)、チリ代表(1997年)など、経済優良国に対して好成績を収めた。2002年5月5日には2002 FIFAワールドカップ出場を控えたブラジル代表を招いて親善試合を行ない、結果的にFIFAワールドカップで優勝することになる相手に1-3で敗れた。2004年5月には再びブラジルをカンプ・ノウに招き、今度は2-5で敗れた。同年12月にはアルゼンチン代表を招いて親善試合を行ない、0-3で敗れた。2006年5月には、2006 FIFAワールドカップ出場を控えていたコスタリカ代表を2-0で破った。
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王政復古後
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「エイブラハム・カウリー」の記事における「王政復古後」の解説
12年にわたるパリでの亡命生活の後、1660年、王政復古をうけてイングランドに帰国する。すでに詩人としての名声はイングランドでも広く確立していたが、自分で期待していたほどの処遇を受けることができなかった。失意のうちに、イングランド南部サリー州チャーツィーの田園に隠棲、文筆に専念する。 1667年夏の夕暮れ、草原で農場労働者の監督に当たっている際に罹った風邪が原因で死去。遺体は、ウエストミンスター寺院に埋葬された。
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