王政復古後の活動
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「ウィリアム・ペティ」の記事における「王政復古後の活動」の解説
王政復古以後チャールズ2世の庇護を受け、1661年4月ナイトに叙任。さらに共和国時代に得たアイルランドの領地も再度国王から授与された。社会的地位と領土を回復したこの時期に、ペティの学者としての名声は最も大きなものとなる。自然科学分野では、不可視の学院の後身である王立協会のフェローとなり、力学や船舶の建造など幅広い分野での報告を提出。1673年には副会長に選出。1684年のダブリン理学協会(後のダブリン王立協会)の創立に尽力し、会長に選ばれた。 この時期のペティはサミュエル・ピープスの日記にしばしば登場しており、科学好きで王立協会に出入りしているピープスと話す場面や協会での出来事が書かれている。1664年2月1日に協会を訪問したチャールズ2世から「空気の重さを測ることにばかり時間を費やしている」と笑われたことに困惑した場面、1665年4月12日にロバート・フックが立ち上げたフランス製チャリオットの改善委員会に所属、1667年5月に世間に注目されていたマーガレット・キャヴェンディッシュを一目見ようと、ピープスと共に馬車へ乗って見物に出かけたことなどが記録されている。また、新型船建造に熱心で船底を2つに設計した双底船ダブルボトム(別名スルースボトム)と言う船を作り、1663年7月に国王の船と競争して勝ったことが書かれ、海軍官僚として関心があったピープスから日記でこの船について言及され、ペティは彼と盛んに論じていた。だが10月の処女航海で船員たちが乗船を嫌がりなかなか双底船へ乗らずに揉めたこと、無事航海を終えて1664年12月22日の進水式、翌1665年2月の祝賀会を経て3月から双底船は航海を始めたが、やがて嵐で船員もろとも行方不明になったことは初航海のトラブルと合わせて風刺の対象にされた。この後ペティは双底船再建を計画したが、1684年12月16日の試験航海の失敗で挫折してからは再建されなかった。 経済学分野における主要な著作は全て王政復古期に書かれている。1662年の初めにペティとの協働とされるグラントの著作『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』が出版され、さらに同年4月頃ペティによって財政論『租税貢納論』が匿名で出版された。1665年に戦時財政論『賢者には一言をもって足る』が執筆され、ペティの死後1691年に『アイルランドの政治的解剖』の付録として出版された。第三次英蘭戦争によってイギリスが苦しい状況に追い込まれていた1670年代前半には、英・仏・蘭の国力を数量的に比較した『政治算術』、アイルランドの政治構造を分析した『アイルランドの政治的解剖』を執筆。それぞれペティの死後、1690年に『政治算術』、1691年に『アイルランドの政治的解剖』が出版された。1682年、貨幣の改鋳問題を扱った『貨幣小論』が出版。1683年に『ダブリンの死亡表に関する諸観察』、1687年に『アイルランド論』が出版された。 1666年から領地経営にあたるためアイルランドに赴いている。ペティは著作に述べられているアイルランド開発計画を自らの領土で実践し、ピューリタンのイングランド人をアイルランドに入植させ、製鉄業や製材業といった産業を創設し、橋梁の建設や私鋳貨幣の鋳造など植民地運営に必要な政策をとった。その経験によって得られた諸観察によって、研究を発展させていったのである。 ただし領地経営はイングランドの横槍で苦労させられ、1663年の航海条例制定と1667年の畜牛法制定でアイルランドが外国貿易や畜牛のイングランド輸出を禁止され、アイルランド経済が窮地に立たされると、自領の収益も不安定になるためイングランドの方針を批判しだした。アイルランドに住むイングランド人が同国人から差別される不条理にも怒り、アイルランド・スコットランド・イングランドの合同を提案、アイルランド議会とイングランド議会の合同による政治的安定、アイルランド人とイングランド人の互いの移植による同化(変種)、ひいては植民地にもイングランドとの議会合同と変種を適用、それぞれが一体化された強大な国家誕生を亡くなるまで主張し続けた。 1685年にロンドンに戻り、1687年12月に64歳で死去。
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