製材業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 02:54 UTC 版)
「バンゴー (メイン州)」の記事における「製材業」の解説
19世紀、バンゴーは材木積出港として繁栄し、自ら「世界の製材首都」と名乗るようになった。土地の製材所(300から400もあった)の大半は、オロノ、オールドタウン、ブラッドレーおよびミルフォードのような上流の町にあり、バンゴーは資本、港湾施設、物資の供給および娯楽を管理していた。バンゴーの資本家は森林の大半も所有していた。バンゴー木材の主な市場は東海岸の都市であり、ボストンやニューヨークは大半がメインの木材で建設されたが、少なからぬ量がカリブ海に直接運ばれた。カリフォルニア・ゴールドラッシュの時には建設用木材がケープホーンを回って運ばれたときは特に活発になった。その後カリフォルニア州北部や、オレゴン州とワシントン州にも製材所が造られた。バンゴー市民はその後メインの製材文化を太平洋岸北西部に移植しゴールドラッシュにも自ら参加した。ワシントン州バンゴー、カリフォルニア州バンゴーおよびネバダ州リトルバンゴーはこのような経過の遺産である。 水夫や木樵達がその乱暴さで町の評判を拡げた。その馴染みの地盤は「悪魔の半エーカー」と呼ばれた(これと同じ名前がほぼ同じ時期にペンシルベニア州のデビルズ・ハーフエーカーに与えられた)。1830年代に近くのカナダからアイルランド移民が到着し始め、地元のヤンキーとの間に職を求めた争いになり、1833年には何日も続いた恐ろしい派閥暴動に発展し、民兵隊が鎮めなければならなかった。バンゴーの町は警察力を備える必要性を認識し、1834年に市制を始めた。アイルランド系カトリック教徒と後にはユダヤ人が、カナダ大西洋岸から来た多くの移民と共にその地域社会を作った。1910年にバンゴーに住んでいた205人の黒人の中で、3分の1以上はカナダ出身だった。 1838年から1839年に起こったイギリスとの国境紛争である無血のアルーストック戦争のときはバンゴーが政治的扇動の中心になった。地元の政治家達は、以前に2度にわたってペノブスコット川で暴力を揮ったイギリス海軍に警戒して、連邦政府を動かし1844年から1865年の間、バンゴーの下流プロスペクトに大型御影石造りのノックス砦を建設させた。この砦が戦闘に使われることは無かったが、今では地域の最も著名な歴史的建造物の一つになっている。 「材木男爵」の多くが、念入りなギリシャ復古調やビクトリア様式の家屋を建設し、それらは今でもブロードウェイやウェストブロードウェイおよび市周辺のあちこちに立っている。また数多い存在感ある古い教会と緑陰樹の天蓋でも有名である。その美しさの故に、市は「東部の女王の市」と呼ばれた。その短縮形である「女王の市」という名称は地元のクラブ、組織、行事および事業で使われている。 19世紀のバンゴーは材木の積み出しに加えて、モカシン(鹿皮製の靴)の主要な製造者であり、1880年代には年間10万足以上を出荷した。
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