王政復古政変とは? わかりやすく解説

王政復古政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 01:51 UTC 版)

徳川慶勝」の記事における「王政復古政変」の解説

慶応2年12月、慶勝と対立関係にあった茂徳の一橋家相続決定したことにより、茂徳とその支持派藩政から放逐され家中対立に一応の決着着いたこれを契機として藩政改革機運高まり慶応3年以降藩校明倫堂関係者らの藩中枢部への進出進み、彼らが王政復古向けて藩政主導していくこととなる。 慶応3年10月14日1867年11月9日)には15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われた。慶勝は上洛して、薩摩藩土佐藩とともに王政復古政変に参加新政府議定に任ぜられる。12月9日1868年1月3日)の小御所会議において慶喜に辞官納地催告することが決定、慶勝が通告役となる。この時期においても、慶勝は徳川宗家補翼する意識強く保持しており、大政奉還後は官位降奪の願書朝廷提出したほか、小御所会議では慶喜出席主張議定職の辞職願提出し、辞官納地に際して尾張藩領を宗家返還する意向まで表明している。 翌慶応4年1月3日1月27日)に京都旧幕府軍と薩摩藩長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦い起こり慶喜軍艦大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する1月15日、慶勝に対し、藩内の姦徒誅戮」のため帰国命ず朝命が発せられる1月20日2月13日)、慶勝は尾張戻り家老渡辺新左衛門佐幕派家臣粛清断行する青松葉事件)。続いて朝命従い尾張藩東海道中山道沿道大名・旗本領に派遣し新政府恭順証拠として、「勤王証書」を提出させる活動繰り広げた。この活動により仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王率い東征軍大きな戦闘経験することなく江戸へ向けて進軍することが出来たといわれる青松葉事件とそれに続く勤王誘引活動については、慶勝自身意向というより、岩倉具視結託し藩校明倫堂関係者影響力指摘される。 慶勝は、上記のような活動を行う一方で、茂徳と協力して容保、定敬の助命嘆願行った閏4月21日6月11日)に議定を免ぜられ、その後政界に立つことはなくなった。

※この「王政復古政変」の解説は、「徳川慶勝」の解説の一部です。
「王政復古政変」を含む「徳川慶勝」の記事については、「徳川慶勝」の概要を参照ください。

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