王政時代の弾圧と政権参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 09:24 UTC 版)
「イタリア共産党」の記事における「王政時代の弾圧と政権参加」の解説
しかし1922年10月にベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を掌握すると、アマデーオ・ボルディーガら党幹部が次々に逮捕され、組織分解を余儀なくされる。1924年5月にはアントニオ・グラムシが帰国し、非合法に共産党第1回全国協議会を開催するが、1925年にはファシスト党が共産党の残党を制圧し、翌1926年にフランスのパリに指導部が亡命することを余儀なくされた上に、亡命に失敗したアントニオ・グラムシが逮捕され投獄された。 その後はグラムシの友人のパルミーロ・トリアッティが書記長の座を継いだが、ファシスト党の一党独裁が続いたため、イタリア国内における共産党の活動は弾圧されたままとなり、トリアッティはフランスからスペイン共和国に、さらにはソビエト連邦へと亡命を続けることになった。 1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にイタリア王国も枢軸国側として参戦したものの、1943年7月にはシチリアに連合国軍の上陸を許すなど劣勢となった。その結果、同月にはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の命令でムッソリーニが逮捕され、9月にはイタリア王国が連合国軍と講和を結んだ。 しかし直後にドイツ国防軍が北部および中央イタリアを占領したことでドイツの傀儡政権である「イタリア社会共和国」が樹立され、ムッソリーニの側近となったボムバッチはこれに参加した。 1944年にはトリアッティが帰国を果たし、同年6月18日にイヴァノエ・ボノーミが組閣を行った際には無任所相として入閣を果たし、共産党は与党の1つとなった。その後も連合国軍や共産党シンパが多くを占めたパルチザンとドイツ国防軍との戦いが続き、1945年5月にイタリア北部を占領していたドイツが降伏する。
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