王敦との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 09:27 UTC 版)
王敦が周訪へ杜曾討伐を依頼した時、杜曾を捕らえたならば周訪を荊州刺史に任じると約束した。しかし、その約束は一向に履行されなかったので、周訪は大いに怒った。王敦は信書を送って釈明を行い、さらに玉環・玉碗を贈り自らの厚意を示した。周訪はそれらを放り投げて「我の事をまさか商人か子供と思っているのか。このような宝物で我が喜ぶと思うか!」と激怒した。 周訪は襄陽へ着任中、農業と練兵を推し進め、群衆の意見に良く耳を傾けた。また自らの意思で地方官員を選び、任命した後に朝廷へ上表した。王敦は以前より謀反の心を抱いていたが、周訪の強大な軍事力を大いに恐れ、周訪が自分を決して支持していない事を知っていたので、敢えて事を為そうとしなかった。周訪もまた王敦が異心を抱いているのを知っており、その備えを怠らなかった。 周訪は幾度も軍功を立てたが、次第に謙虚になり勲功を言上しなくなった。更に功績を全て朝廷に帰結させたので、士人は皆大いに尊重したという。その上周訪は大衆を集める才能と人心を安定させる才能があったので、士卒は皆喜んで彼のために命を捧げたという。周訪は練兵を重ね、李矩と郭黙を始め河南一帯の東晋将軍と共に北伐を実行せんとしていた。 320年8月、周訪はこの世を去った。享年61であった。元帝は非常に嘆き悲しみ、周訪へ征西将軍を贈り、壮と諡した。さらに尋陽郡に記念碑を立てさせた。翌年には鎮西将軍の祖逖も死に、彼ら二人の死により王敦を抑える者はいなくなり、322年に遂に反乱を起こすこととなる。
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