王政復古期の終わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 15:25 UTC 版)
「イングランド王政復古」の記事における「王政復古期の終わり」の解説
詳細は「名誉革命」を参照 1688年から1689年の名誉革命によって王政復古期は終わった。名誉革命ではオランダ総督兼オレンジ公ウィリアム3世(オラニエ公ウィレム3世)と協力してイングランド議会が国王ジェームズ2世を追放した。オランダ船隊とオランダ軍によるウィレム3世のイングランドへの上陸は成功し、新国王ウィリアム3世はジェームズ2世の娘で妻のメアリー2世と共にイングランドの共同統治者に就任した。 1688年4月、ジェームズ2世は信仰自由宣言を再発布し、全ての国教会聖職者にそれを彼らの集会で読むように命じた。カンタベリー大主教を含む7人の主教が王の宗教政策を再考するよう求める嘆願書を提出すると、彼らは逮捕され、治安妨害文書を出した罪で裁判にかけられた。6月30日、7人のプロテスタント系貴族がウィレム3世に軍を率いてイングランドに来るよう頼んだ。 9月までにウィレム3世がイングランドに進行することが明らかになり、11月にウィレム3世が上陸すると、ジェームズ2世は我を失い、上陸してきたオランダ軍を迎え撃つことを拒否し、フランスへ亡命しようとしたが、ケントで拘束された後、解放されてオランダ軍の監視下に置かれた。ジェームズ2世を殉教者にする意図など全くなかったウィレム3世は12月23日に彼を亡命させた。ジェームズ2世はフランスで従弟で同盟者のルイ14世に迎えられ、彼から宮殿と年金を提供され一生を送った。 ウィレム3世は状況にどう対処するか決めるため、仮議会を招集した。議会はジェームズ2世を退位させることを拒否する一方で、ジェームズ2世のフランスへの亡命は事実上の退位であり、王座は空位であると宣言した。空位を埋めるため、ジェームズ2世の娘のメアリーの女王即位が宣言され(メアリー2世)、メアリー2世は王となるウィリアム3世と共同統治をおこなうこととなった。イングランド議会はジェームズ2世の王権の濫用を糾弾する権利の章典を議会通過させた。ジェームズ2世の行ったとされた王権濫用には審査法を停止したこと、王に嘆願しただけの七主教を裁判にかけたこと、平時に常備軍を維持したこと、残虐な刑罰を課したことなどがある。 権利の章典ではさらに今後、ローマ・カトリック信者はイングランド王位を継承できず、すべてのイングランド王族はローマ・カトリック信者とは結婚できないと定めた。このことは、後の1701年王位継承法に色濃く反映されている。
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